ルッフェンホーフェン城砦 ( Kastell Ruffenhofen) |
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別称 : ルッフェンホーフェン兵営 | |
分類 : 古代ローマ陣営 | |
築城者: ドミティアヌス帝か | |
交通 : ディンケルスビュールからバスに乗り、 「ヴィッテルスホーフェン」下車徒歩15分 |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 紀元1世紀末ごろ、ローマ帝国のドミティアヌス帝はそれまでに獲得したライン川およびドナウ川 流域地域の確保のため、「リーメス(Limes)」と呼ばれる長城の建設を開始した。この長城には、 短い間隔で物見塔が並べられ、それよりやや広い間隔で兵営が設けられた。兵営はいくつかの グレードに分けられ、間隔の広い大規模兵営の間に、規模の小さい兵営が数個並ぶシステムが とられていた(現代でいえば高速道路のPAとSAの関係に近いと思われる)。ルッフェンホーフェン 城砦は、このうちもっとも規模の大きい兵営に属していたものと推測されている。 全長600km弱におよぶリーメス(リメス)の建設は、2世紀前葉のハドリアヌス帝の時代まで続け られたが、ルッフェンホーフェン城砦がいつごろ築かれたのかは確定していない。発掘調査の結果 からは、遅くともトラヤヌス帝期の2世紀初頭までには造営されていたものと推定されている。兵営 には、常時500名ほどの兵が駐留していたと考えられている。 260年、ウァレリアヌス帝がサーサーン朝ペルシアとの戦いに敗れて捕虜となると、ゲルマン系 部族が蜂起し、リーメスを越えて帝国内へ侵入するようになった。共同皇帝であったガッリエヌス は、リーメスを放棄して後退した。その後、しばらくはゲルマン系のアレマンニ族がリーメスを管理 していたが、時とともに打ち捨てられ忘れられていった。 <手記> ローマの「Castrum(ドイツ語ではKastell)」について、日本語では「城砦」と訳すのが一般的に なっているようです。しかし、「城砦」とは本来「刀剣」や「家屋」などのように同義語を重ねて汎用 的に使う単語であり、個別の城砦に対して用いるものではありません。また、「Castrum」は防衛 設備は有するものの、第一の使用目的は兵の駐留にあるため、私は「兵営」ないし「陣営」と訳す のが妥当ではないかと考えています。 リーメスは、近年ヨーロッパで研究が進められているホットな遺跡です。むしろこれまで注目され てこなかったのが不思議なくらいですが、ここルッフェンホーフェンも本格的な調査がはじめられた のは21世紀に入ってからだそうです。私自身その存在はまったく知らず、ディンケルスビュールの 本屋にたまたまぷらっと入り、たまたま手にとった地元史の本に記載されていたのをみて初めて 知りました。 そして興奮の勢いのまま観光案内所で聞いてみると、直通の公共交通機関はなく、近くの町の バス停から歩くことになるとのことでしたが、本数が少なく旅程と合わなかったため、悩んだすえ にタクシーで訪ねることにしました。片道30ユーロと結構な旅費がかかってしまいましたが、今回 を逃すと訪れることができるかどうか分かったものではないので、珍しく奮発しました(笑)。 現在、兵営跡を中心に「ローマパーク」として公園化されていますが、まだ建設中のようで、私 が訪れた時にはビジターセンターがまさに工事中でした。大工さんに聞いたところ、「あと2か月で 完成させる予定」とのことだったので、もう出来上がっているはずです。 ルッフェンホーフェン城砦は、一応南側のみ地続きの舌状の丘上に位置していますが、この丘 の斜面はあまりにも緩やかで、大して防御の足しにはならないものと思われます。南に少し行った ところには、人工かもしれませんが小高い丘があり、その上から兵営跡の全容を眺めることができ ます。この丘と兵営跡の間にはミニチュア模型が置かれており、かつての姿を想像しやすくなって います。 フランクフルト郊外のザールブルク城砦とは異なり建物の復元はされていませんが、植えられた 植物の種類分けによる地表復元が成されています。結構はっきりと分かるもので、なかなか小粋 な復元方法なように思いました。4重の堀で囲まれたこの陣営からは、南を除く三方への眺望が 開けており、北側の小さな谷を越えた向こう側の稜線付近にリーメスの長城が走っていました。 敵の接近の知らせを受けると、駐留兵はここから防衛ポイントへと出撃していったわけです。 城砦の外側には市が開かれていたとみられています。ここは最果ての交易地として栄えていた と考えられており、城砦の外側に大きな建物跡がいくつか検出されています。こうした兵営に付属 する市場から都市へと発展する例もあり、その代表的なものにはウィーンやレーゲンスブルクなど があります(古代ローマからの継続性を立証するのは困難ですが)。 近年のリーメス研究の成果として面白いと思ったのは、この長城が外敵の侵入を阻む目的だけ でなく、帝国内の人口や情報、物資の流出を防ぐという役割も負っていたという点です。すなわち、 リーメスは外敵を防ぐ「城」であると同時に、外と内の接触をシャットダウンする「壁」でもあったわけ です。この点は、中国の万里の長城でも指摘されているそうで、長城のもつ意味は世界の西でも 東でもより複雑に捉えられていたということになろうかと思います。 |
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城砦跡(奥)とミニチュア復元模型(手前)。 | |
兵営外側の大規模建物跡。 床暖房設備が検出されたことから浴場跡と推測されています。 |
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宗教施設跡。 | |
4重の堀跡。 | |
穀倉跡。 | |
司令官の館跡。 | |
主庁舎(プリンキピア)跡。 | |
西側の堀跡。 奥の稜線手前の林付近を、リーメスが左右に延びていました。 |
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兵舎および厩跡。 |