蓮池城(はすいけ)
 別称  : 小曲城、小田城、蓮池陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 小田直光
 遺構  : 堀
 交通  : JR長崎本線佐賀駅よりバス
       「蓮池公民館前」バス停下車


       <沿革>
           応永三十四年(1427)に、小田直光によって築かれたとされる。直光は、常陸国小田城主
          小田持家の弟直家の子とされる。今では城内を貫通している佐賀江川は、当時は城の北西
          から南西、そして南東へと城を囲むように蛇行しており、周辺は小曲江と呼ばれたため、城も
          小田氏時代には小曲城と呼称されることが多かった。
           永享五年(1433)に少弐満貞が大内氏に敗れて戦死し、翌六年(1434)に一族の横岳頼房
          が主家再興を期して挙兵すると、直光の孫の貞光はこれに応じた。以後、小田氏は少弐氏に
          属して転戦した。
           天文五年(1536)、少弐資元が大内義隆麾下の陶興房の攻撃を受けて自害すると、資元の
          子冬尚は貞光の孫資光のもとへ逃れた。冬尚は資光ら旧臣のはたらきにより少弐氏を再興
          したが、資元が死に追いやられたのは、少弐家中で頭角を現していた龍造寺家兼が資元を
          十分に援けなかったからだとする風聞が広がり、小田氏も次第に龍造寺氏と対立するように
          なった。
           天文二十二年(1553)、家中の内紛で居城水ヶ江城を逐われていた家兼の曾孫隆信が、
          筑後の蒲池鑑盛の支援を受けて復帰すると、資光の孫の政光は隆信に蓮池城を攻められ、
          降伏した。永禄元年(1558)、政光は隆信の命で少弐家臣江上武種を攻めたが、長者林の
          戦いに敗れて戦死した。このとき、隆信は政光から救援要請を受けていたにもかかわらず
          これを無視し、政光討ち死にの知らせを受けると、すかさず蓮池城に兵を向けたといわれる。
          小田家臣深町理忠らが防戦したものの、衆寡敵せずやむなく開城し、政光の遺児の鎮光・
          賢光・増光は筑後に落ち延びた。
           翌永禄二年(1559)、鎮光らは隆信に赦されて蓮池城主に返り咲いた。同十一年(1568)、
          鎮光は多久梶峰城に移され、入れ替わりで多久から隆信の弟長信が蓮池城に入った。
           元亀元年(1570)、大友宗麟の命を受けた大友親貞が大軍を率いて肥前に進軍すると、
          鎮光・賢光兄弟は大友方に与し、末弟の増光は龍造寺方について蓮池城に籠った。今山の
          戦いを経て大友軍が撤退すると、鎮光らは再び筑後へと奔り、長信が梶峰城主となった。
          蓮池城には龍造寺一門の後藤家信や龍造寺家晴が入ったとされるが、詳細は定かでない。
          ちなみに、増光は隆信の信任を得て龍造寺家臣として仕えたが、鎮光と賢光は翌二年(15
          71)に隆信に誘殺された。
           天正十二年(1584)の沖田畷の戦いで隆信が戦死すると、柳川城主鍋島直茂が隆信の
          嫡男政家を輔弼するため佐賀城へ移り、家晴は柳川城主に転じた。代わって、隆信の二男
          江上家種が蓮池城に入った(直茂はまず蓮池城主となり、同十七年(1589)に佐賀へ移った
          とも)。家種は文禄二年(1593)に出陣先の釜山で戦死し、直茂が蓮池城主となった。文禄の
          役に際して、蓮池城の天守が名護屋城大手の櫓として移築されたとも伝わる。
           豊臣秀吉の命により、龍造寺家の家督は天正十八年(1590)に政家から嫡男高房に譲ら
          れたが、高房はまだ幼児であったため、政務は直茂がとることになった。秀吉の九州平定の
          ころから、鍋島氏と龍造寺氏による二頭体制化が進んでいたが、政家の隠居により直茂の
          実権掌握が決定的なものとなった。直茂・勝茂父子は、慶長四年(1599)ごろから龍造寺氏
          の佐賀城とは別に、蓮池城の改修に着手した。同六年(1601)に勝茂が鍋島生三に宛てた
          書状には、当時の蓮池城に天守があったことが明記されている。
           慶長十二年(1607)に政家・高房父子が相次いで没すると、鍋島家は正式に佐賀藩主家
          として認められ、直茂・勝茂父子は佐賀城へ移った。蓮池城には、鍋島氏の縁戚にあたる
          石井氏(直茂の正室は石井常延の娘)が城番として入った。元和元年(1615)の一国一城
          令によって、蓮池城は廃城となり、建材は佐賀城へと運ばれた。寛永十六年(1639)には、
          勝茂の三男直澄が5万石余を分知され、蓮池に陣屋を構えた。蓮池藩鍋島家は9代を数え、
          明治維新を迎えた。
         

       <手記>
           蓮池城は佐賀江川と中地江川の合流点にあり、今は蓮池公園や蓮池神社境内となって
          います。神社と公園の間にある佐賀江川によって城域は南北に分断されていますが、これ
          は戦後の河川直線化改修工事によるものです。かつては、前述のとおり佐賀江川が城を
          迂回するように西から南、そして東へと回っていました。園内の佐賀江湖に関する説明板
          には、佐賀江川の蛇行は人工的に作られたものとあります。いわく、水の流れる距離を長く
          することで、周辺の保水や潮の満ち引きを利用した船運を可能にしていたそうです。という
          ことは、おそらく江戸時代にも流路が付け替えられていることになり、小田氏時代の蓮池城
          のようすを推し測ることは困難であるともいえます。
           流路変更など種々の造成により、蓮池城の遺構は堀を残して壊滅的に破壊されています。
          神社参道脇に古びた説明板が立っているほかは、城跡を思わせるものはありません。ただ、
          周辺の城下町や外郭のようすは、地図上からも見てとることができます。

           
 蓮池公園のようす。
蓮池神社参道脇の説明板。 
 蓮池神社。
城内を貫通する佐賀江川。 
干潮時だったのか、河泥が見えています。 
 堀に映る夕日。


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