別所屋敷(べっしょやしき) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者 : 不明 | |
遺構 : なし | |
交通 : 東武東上線若葉駅からバスに乗り、 「雷電塚入口」下車徒歩3分 |
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<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』青木村の項に、「往昔武士の居住せし跡とのみ伝えて姓名も知らず 構えし内西北の廻りに小土手今に残れり 其外皆畠となる 此畠の中より甲冑刀槍の類の朽ち たる物を穿出せしことありと 想うに当国七党の内丹の党に青木氏なる者あり 其人の居住せし 所なるも知べからず」とある。 武蔵七党の1つ丹党庶流の青木氏は、勅使河原直兼の子直時ないし、直兼の叔父新里恒房 の子真直にはじまるとされる。一般には、青木氏の本貫は同じ入間市でも現在の飯能市青木と されている。 <手記> 東光寺の西、雷電塚古墳の北西付近が青木地区の北端にあたり、屋敷もこのあたりにあった とされています。養魚場の北西に藪林があり、ネットで調べたところではその中に土塁のような 地形があるとのことでした。 ところが、訪れてみると前情報の写真と比べて樹木はほとんどなくなっていて、周囲もフェンス が張られて入れないようになっていました。西側に隣接する処理業者によって取り崩されたもの と推察されます。おそらく件の遺構も消滅してしまったと思われますが、せめて事前に何らかの 調査が行われていることを願うばかりです。 林の脇には鎌倉街道が南北に走っていたとされています。周辺には西光寺城や明泉館など 室町時代のものと思われる城館跡が散在していますが、この別所屋敷については、青木氏の 館かどうかはともかくとして、街道との関連性から鎌倉時代前後に由来を求められるように感じ られます。その場合、念頭に上ってくるのは、むしろ西へ1km弱のところにある勝呂氏館です。 勝呂氏は、やはり武蔵七党の1つである村山党の庶流とされています。丹党青木氏の分家が 当地に入植して青木の地名が付いたとも考えられますが、別所屋敷を鎌倉時代前後の城館跡 とするなら、勝呂氏に関連する施設があったとする推察も成り立つでしょう。 |
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別所屋敷跡比定地周辺現況。 | |
同上。 |