西光寺城(さいこうじ) | |
別称 : 塚越城、塚越西光寺館、小島氏館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 小島氏か | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : 東武東上線若葉駅よりバス。 「住吉神社前」バス停下車徒歩10分。 |
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<沿革> 西光寺は、小島豊後・越後父子が屋敷内に設けた西光庵という草堂が始まりとされる。 寺伝によれば、小島氏は関東管領上杉氏家臣とされるが、現地説明板では越後上杉氏 に仕えたとある。 『坂戸市史』では、西光寺城ははじめ村山党庶流勝(すぐろ)氏が築いたもので、後に 小島氏の手にわたり、拡張されたものとしている。西光寺の西500mmほどのところには、 勝(勝呂)氏の居館跡とされる宗福寺がある。また、西光寺には勝氏ゆかりの宝篋印塔 があるが、これは塚越の五輪山から移されたものとされ、勝氏築城説を裏付ける確証は ない。 ちなみに、西光寺は正保三年(1646)に撫州春道によって開基されたものである。 <手記> 西光寺の東側で道路が南から東へクランクするところで、カーブを反れて茂みに入ると、 数基の墓碑のある堀底道があります。ここがすでに西光寺城の堀跡で、その西側の林 のなかに、よりはっきりした堀と土塁が眠っています。 現在目にできる堀と土塁をたどると、矩形の曲輪を1つ形成していることが分かります。 ただ、これだけで成り立っている城とは思えず、かつては西光寺境内を主郭とする構造 の城館であったものと推測されます。 ところで、西光寺城主とされる小島氏は関東管領上杉氏(山内上杉氏)の家臣とされて いますが、位置関係から見るならむしろ河越城主の扇谷上杉氏に属していたとする方が 自然です。この点について、私は長享元年(1487)に始まる長享の乱との関連を考えて います。 西光寺の南1.5kmほどのところには、大堀山館を中心とする一大城館群があります。 私はこれを長享の乱において山内上杉氏が明応六年(1497)から足かけ7年にわたって 河越城を攻囲した際の陣城群と推察しています。西光寺城の周辺にも明泉館や塚越館、 構堀屋敷、堀の内屋敷といった城館跡が密集しています。私見を敷衍させれば、これら の城館群の多くも、やはり同時期の陣城として築かれたものとだったと考えることも可能 でしょう。扇谷上杉朝良は永正二年(1505)に山内上杉顕定に降伏しましたが、その後に 山内上杉家臣のいくらかが、河越の押さえを兼ねてこのあたりに所領を与えられ、陣城を 取り立てて居館としたとすると、ある程度すっきり説明できるように思えるのです。事実、 坂戸市東部一帯には小島氏のほか林氏や水村氏、浅海氏など、戦国時代になって移り 住んだとみられる武家がちらほら見受けられます。 |
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堀と土塁。 | |
堀底道。 | |
同じく墓碑のある堀底道。 | |
西光寺門前。 |