真田城(さなだ) | |
別称 : 実田城、実田要害 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 不詳 | |
遺構 : 土塁、櫓台、堀跡 | |
交通 : 小田急線鶴巻温泉駅または東海大学前駅 徒歩20分 |
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<沿革> 三浦氏一族の岡崎四郎義実の嫡男与一義忠は、真田を領し佐奈田氏(真田氏)を 称した。義忠は、治承四年(1180)の石橋山の合戦で先陣を賜り、俣野景久と壮絶な 組打ちの末、景久の郎党長尾新六に討たれた。義忠の子実忠は岡崎氏を継いだが、 建暦三年(1213)の和田合戦で討ち死にし、岡崎氏は滅びた。義忠の居館がどこに あったのかは定かでない。 真田城が史料に登場するのは、15世紀末になってのことである。なお、現在の地名 は真田であり、『新編相模国風土記稿』でも「真田」となっているが、一次史料では概ね 「実田」と書かれている。明応四年(1495)、北条早雲(伊勢宗瑞)に小田原城を逐わ れた大森藤頼は、真田城に逃れて抵抗を続けたが、同七年(1498)に敗れて自害した とされる(『寛永大森譜』『関八州古戦録』等)。ただし、同五年(1496)の山内上杉顕定 の書状には、大森式部少輔と早雲の弟弥次郎が同じ幕下で戦っていることが記されて おり、近年では早雲による小田原城奪取はこれ以降のこととする見方が強い。同書状 には「上田右衛門尉要害実田」とある。上田氏は扇谷上杉氏の重臣であり、真田城は 少なくともこの時点では、扇谷上杉氏の城であったとみられる。 『日本城郭大系』は、小田原城を逐われた藤頼が真田城に拠ったことをして「明らか に否定せざるを得ない」としているが、真田城が明応五年時点で扇谷上杉氏の要害で あったことを最大の論拠としている。また、藤頼は「岡崎辺」へ逃れたと『北条記』にある ことから、藤頼が移ったのは真田城ではなく甥三浦道寸の拠る岡崎城周辺であろうと している。ただ、『大系』が『北条記』にのみ信を置く理由は不明である。 『史料綜覧』には、『江口文書』や『発智文書』および『歴代古案』からの引用として、 「永正元年(1504)十二月二十六日 上杉顕定同房能ノ軍 上杉朝良ノ相模実田ノ塁ヲ 攻メ 尋デ 之ヲ陥」とある。同年八月の立河原の戦いで扇谷上杉朝良・北条早雲らに 敗北した山内上杉顕定は、越後守護上杉房能や同守護代長尾能景の援軍を受けて 反転攻勢に出ていた。房能が発智六郎右衛門尉に発給した感状にも、「実田要害」に おける粉骨のはたらきとある。 この後、真田城は史料に現れなくなる。翌二年(1505)、朝良は顕定に降伏し、早雲 は両上杉氏と対立することになった。同九年(1512)には真田城北東の岡崎城が早雲 によって攻め落とされたが、この戦いに際しても真田城は登場していない。おそらくは、 顕定に攻め落とされた時点で廃城になったものと考えられる。 <手記> 真田城は、大根川に臨む丘陵の舌状に飛び出した部分を利用した城です。現在は、 天徳寺の境内となっています。縄張りについては詳らかではありませんが、本堂から 裏手の墓地にかけて細長い主城域があり、その三方を帯曲輪が巡っていたようです。 北と東の帯曲輪は開発により不鮮明ですが、西側には一段低まったスペースが残って います。墓地の北と東辺には土塁の痕跡が見受けられ、北東隅には歴代住職の墓と なった櫓台が残っています。寺の南西には与一堂というお堂があり、これを櫓台とする 向きもあったようですが、元治元年(1864)に盛土されたと寺伝にあるということから、 現在では否定されているようです。そもそも与一堂を城域に含めると、真田城は総構を もった規模壮大な城となってしまうため、時代や性格を考えると妥当ではありません。 ただ、与一堂の脇には佐奈田義忠と真田城について触れた説明板が設置されていて、 これが現地で城跡を示す唯一のものとなっています。 さて、真田城については、とにかく大森藤頼との関連が焦点といえます。近年の研究 から、ひとまず真田城が大森氏ではなく扇谷上杉氏の城であったことは間違いないと 思われます。一次史料にみられる「実田要害」という呼称についても、上杉氏が戦闘用 に取り立てた城を「要害」と呼ぶことが多いように思います(七沢城など)。ただ、だから といってそれを根拠に藤頼が逃げ込んだのは真田城ではありえないとまで断ずることは できないと考えています。 大森氏は扇谷上杉氏家臣の家臣筋ですから、主家の城に逃れたとしても不自然では ありません。ただし、なおも真田城で早雲と戦ったとする点については、疑問を呈さざる を得ないでしょう。このころの早雲は、今川氏の名代という形で扇谷上杉朝良らとともに 山内上杉顕定と争っていたわけですから、朝良方の真田城を攻める理由がありません。 となると、そもそもなぜに早雲が藤頼を追い落としたのかが、新たな疑問として湧いて きます。この点に関しては近年、藤頼が山内上杉氏に寝返ったためとする説が提唱され ています。たしかに、藤頼が朝良や早雲の敵に回らなければ、城を逐われる必然性は ありません。この説は、今日ではかなり有力視されているようです。この説が正しければ はじめて、藤頼が真田城へは落ち延びられないことになります。 そこで、ここからは個人的推察として、私の中で勝手に繋がっているストーリーを展開 します。顕定の攻勢を早雲や甥義同と連携して跳ね返したものの、将来を案じた藤頼は 山内上杉氏と通じる。これを好機とみた早雲は(あるいは伊豆の足利茶々丸との挟撃を 恐れたのかもしれない)、先んじて藤頼を攻めて敗走させる。藤頼は仕方なく、甥義同を 頼って岡崎へ落ちる。しかし義同はこれを許さず、主君朝良の城である真田城へ藤頼を 送り、藤頼はそこで処断される。三浦氏・扇谷上杉氏は、共通の敵であったとはいえ、 早雲が藤頼を独断で攻めて勢力を拡大したことに不快感を抱き、真田城を最前線として 緊張関係が続く。さらに、早雲と義同は伊豆半島および伊豆諸島の領有をめぐって悶着 を起こしていた。明応七年(1498)、足利茶々丸が殺害され伊豆が平定されると、早雲と 義同の間で伊豆領有問題が解決され、両者は一旦は和解する。これにより、真田城の 早雲に対する警戒も解かれた。あるいは、早雲への対抗として名分上旧領主の藤頼を 真田城に匿っていたが、両者の和解により用済みとなり、藤頼はこのときに処断された。 という筋書きです。 いずれにせよ、藤頼の名は小田原城を追われて以降、一次史料にはみられません。 以上は、論理的整合性に特化した私見に過ぎません。百家争鳴、説は多々ありますが、 決着は当分つきそうにはないでしょう。 |
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真田城址の天徳寺。 | |
北東隅の櫓台。 | |
東辺の土塁痕跡(墓石列の背後)。 | |
舌状台地の付け根付近。堀の痕跡か。 | |
与一堂にある説明板。 |