皿尾城(さらお) | |
別称 : 皿尾砦、盃尾城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 上杉政虎(謙信) | |
遺構 : 土塁、堀跡 | |
交通 : 秩父鉄道持田駅徒歩20分 | |
<沿革> 永禄三年(1560)に越後から上杉憲政を擁して関東へ出兵した長尾景虎は、翌四年 (1561)に上杉政虎と改名して帰国の途についた。忍城主成田長泰は上杉陣営に馳せ 参じていたが、政虎は成田氏への押さえとして皿尾城を築き、羽生城主広田直繁の弟 河田谷忠朝を城将として配した。 政虎の懸念どおり長泰はまもなく北条氏に帰参し、さっそく皿尾城奪取の兵を向けた。 永禄五年(1562)のこととされるが確証はない。忠朝はよく防ぎ、岩付城主太田資正の 後詰を得て成田勢を撃退した。その後も、成田氏は北条・上杉両氏に対して面従腹背 の姿勢をとり続け、皿尾城は成田氏に対する楔として機能したとみられる。 永禄十二年(1569)、北条・上杉間で越相同盟が成立すると、皿尾城は存在価値を 失った。この間に、忠朝は父木戸範実の姓に復し、木戸元斎(玄斎)と称している。翌 十三/元亀元年(1570)、直繁が館林城主となり、元斎は羽生城主となった。同年に、 長泰の子氏長が皿尾に高太寺を建立していることから、皿尾城はこのときに廃された ものと推察されている。 <手記> 皿尾集落内の大雷神社から高太寺にかけてが、皿尾城の中心と考えられています。 忍城からは忍川を挟んで目と鼻の先にあり、いかに成田氏が上杉謙信(政虎)にとって 信用ならざる相手であったかが如実にうかがえます。 忍城と同じく、かつては周囲を泥田や低湿地に囲まれた浮島のような城であったもの と思われます。成田氏の本拠にこれだけ肉薄していて落ちることがなかったのは、木戸 兄弟の将才によるところも大きかったのでしょうが、やはりそれなりに要害の城だったと いうことなのでしょう。 大雷神社本殿背後にごく低い土塁が残っています。本殿付近は城の北西端とみられ ますが、社殿北東隅で虎口状に折れ曲がっています。賽銭箱の脇には、城跡に関する 手製のパンフと説明書きが用意されています。これを参考に巡るとよいでしょう。それに よると、神社の周囲には堀が巡っていたそうで、部分的に側溝としてラインをたどること ができます。また、境内南西の道路の屈曲部に石碑が立っています。 |
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大雷神社本殿。 | |
社殿裏の土塁。 | |
虎口跡か。 | |
城址碑。 |