柏原城(かしわばら) | |
別称 : 城山砦、上杉砦 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 上杉憲政か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 西武新宿線狭山市駅からバスに乗り、 「下宿」下車徒歩3分 |
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<沿革> 天文十四年(1545)、関東管領山内上杉憲政は扇谷上杉朝定や古河公方足利晴氏らと 連合し、後北条氏の河越城を包囲した。このとき、憲政が陣を置いたのが柏原城とされる。 連合軍は8万ともいわれる大軍を擁していたが、北条綱成の守る河越城は半年ほども持ち 堪えた。翌十五年(1546)四月二十日のいわゆる河越夜戦で、連合軍は北条氏康率いる 約8千の兵に奇襲され、朝定や山内上杉家臣倉賀野行政らが戦死する大敗を喫した。 河越城の戦い以前に城館が存在したかについては諸説ある。最も古いものは、源頼朝 に従って活躍した畠山重忠の郎党柏原太郎の館とするものである。ほかにも、正平八/ 文和二年(1353)から9年にわたって鎌倉公方足利基氏が拠点としていた入間川御陣の 出城とする説や、明応五年(1496)に山内上杉顕定が扇谷上杉朝良の籠もる河越城を 攻めた際、上戸陣の構築に先んじて古河公方足利政氏が顕定に招かれて一時滞在した とするものもある。ただし、いずれも推測にすぎず、明確な根拠はない。 河越城の戦い後についても、継続して使用されたかどうかは不明である。 <手記> 「市内唯一の中世城郭」と狭山市の公式ページで述べられているように、はっきりとした 遺構の残る城跡として周辺では貴重な存在です。入間川北側の河岸に、本郭と二ノ郭の 土塁や堀が良好にみられます。二ノ郭は独立した曲輪というより馬出に近く、本郭の土塁 には折れや張り出しがみられるなど、小さいながらシステマティックな構造をしています。 縄張りや立地は南東15kmほどの滝の城に類似しているように思われ、後北条氏の手が 入っている可能性は高いといえるでしょう。 そもそも、柏原城は規模としては小さく、関東管領様が半年も腰を落ちつけているような 場所には思えません。また、川越まではやや距離があり、仮に8万もの大軍を擁していた としても、ここから包囲戦を指揮するのはあまり現実的とはいえないでしょう。河越夜戦の 主戦場は河越城のすぐ麓の東明寺付近だったといわれています。憲政が柏原城に陣を 置いたとしても、それはごく初期のことで、戦況が進行するにしたがって包囲網も徐々に 狭められていったと考えるのが、自然な流れのように感じます。 ただしそれでも、柏原城が河越夜戦の後もコンスタントに使われ続けたとまでいえるか は、留保が必要と思われます。現地説明板によれば、堀には掘削時に付いたとみられる 鋤の痕が残っていたことから、整備されて間もなく放棄された可能性もあるとのことです。 はっきりいえるのは、最終的な縄張りが在地領主の城館のそれではないだろうという点 です。そして、中途半端に近い入間川の下流に河越城があるため、川越周辺の支配が 確立してしまえば、柏原城の存在意義は著しく減じるだろうとも推察されます。 したがって私見としては、河越夜戦の後に北条氏が柏原城を取り立てたとしても、その 実用期間はそれほど長くはなかっただろうと考えています。あるいは、天文六年(1537) に北条氏綱が河越城を奪った後に支城として改修され、同十四年(1545)の戦いで憲政 に接収されたとする見方もできなくはなかろうかと思っています。 ちなみに、狭山市の史跡としては「城山砦跡」の名で登録されています。ただ、城山と いうのは城があったことにちなむ地名なので、当時「城山砦」と呼ばれていた可能性は 限りなく低いといえます。一次資料には登場しないので当時の呼称はわかりませんが、 ここではより可能性の高いといえる「柏原城」を用いています。 |
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主郭方面を望む。 | |
現地説明板。 | |
二ノ郭の空堀。 | |
本郭北西の空堀。 | |
同じく北東隅の空堀。 | |
本郭の虎口。 | |
虎口前から河岸側へ落ち込む竪堀。 遊歩道整備のため改変されています。 |
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主郭のようす。 | |
同上。 |