瀬田城(せた)
 別称  : 勢多城
 分類  : 平城
 築城者: 山岡資広か
 遺構  : なし
 交通  : 京阪電鉄石山坂本線唐橋前駅徒歩10分


       <沿革>
           交通の要衝瀬田の唐橋を掌握する山岡氏の居城である。山岡氏はもともと甲賀郡毛枚(もびら)の
          土豪であったが、建武年間(1334〜36)に瀬田に移ったと伝わる。瀬田橋を扼した山岡氏は、幕府に
          対しても影響力をもつ大豪族へと発展した。
           織田氏に仕えた山岡景隆は信長から信頼され、引き続き瀬田橋の管理を任された。城内には信長
          が安土と京を往来する際の専用宿舎として、御茶屋が建てられた。
           天正十年(1582)の本能寺の変に際し、景隆は光秀から勧誘されたが、「信長公の御厚恩浅からず」
          として城と橋を焼き払い、甲賀山中へと退いた。これにより明智軍は橋の修復に時間をとられ、安土城
          を攻略しきることができず、大打撃を受けることになった。
           景隆は翌天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に与し、秀吉と敵対して戦後所領を失った。
          瀬田城はこのときにま廃城になったものと思われる。


       <手記>
           城の正確な所在は今もって明らかではないそうですが、「臨江庵」という膳所藩士の結んだ草庵が
          その跡と伝えられているようです。しかし、当の臨江庵は今や取り壊され、跡地には高層マンションが
          建設されてしまいました。
           以前は庵の周辺に遺構と思わしきものが散見できたそうですが、今では見る影もありません。大津
          から草津・守山あたりにかけて、京阪のベッドタウンとしてここ数年急速に開発が進んでいるようです。
          中学生のころに家族旅行で滋賀を訪れたときには、見渡す限りほとんど高い建物はなく、なんて文化
          的な県なんだと感じたものです。こうして無残に史跡が潰されて、高層建築が乱立していく様は、時代
          の流れとはいえしのびなくもあります。
           立地としては、瀬田川にせり出した川岸上にあり、城といってもほとんど在地領主の館のようなもの
          であったと推測されます。

           

 伝瀬田城址。旧臨江庵・現マンション建設地。

瀬田唐橋から城跡を望む(中央の林の更に奥の建物脇)。 
 瀬田唐橋。
 向こうに見えるのは中州の島で、その奥にもう1本橋があります。


BACK