新城城(しんしろ)
 別称  : 新城陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 奥平信昌
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR飯田線新城駅徒歩15分


       <沿革>
           天正三年(1575)、徳川家臣奥平信昌によって築かれたとされる。信昌は、同年の長篠
          の戦いで長篠城を守り抜いたことで知られる。
           天正十八年(1590)に徳川家康が関東へ移封となると、信昌もこれに従った。東三河は
          池田輝政に与えられ、新城城には片桐半右衛門が城代として派遣された。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後に輝政が播磨52万石へ加増転封となると、新城城
          は一旦廃城となったものとみられる。同十一年(1606)に、水野分長が設楽・宝飯郡内で
          1万石を与えられ、新城藩が成立した。慶安元年(1648)、分長の子元綱は上野国安中藩
          2万石へ加増転封となった。
           代わって、菅沼定実が1万石で新城に入封した。定実は、野田城主であった菅沼定盈の
          孫にあたる。定実の兄定昭は丹波亀山4万石の藩主であったが、嗣子なく没した。菅沼家
          は無嗣改易となるところ、定盈の功績が考慮され、定実をもって名跡の回復が図られた。
          定実は3千石を弟の定賞に分知したため大名の要件を失い、7千石の交代寄合となった。
          そのため、新城城は以後新城陣屋として機能することになる。
           新城菅沼家は11代を数え、明治維新を迎えた。


       <手記>
           豊川の河岸を背にした、典型的な崖端の城です。現地の説明板によれば、本丸は現在
          の新城小学校校庭にすっぽり収まるサイズで、河岸以外の三方に堀と土塁をめぐらした
          簡素な縄張だったようです。
           南東隅に土塁と堀跡が残っていて、土塁上に説明板と石碑が建てられています。その
          脇には、旧尋常高等小学校の建物を移築した「しろあと資料館」があります。私が訪れた
          ときは、残念ながら閉まっていました。
           また、校庭の西辺にも、城の平面図が記載された別の説明板があります。

           
 土塁跡。
土塁外側の堀跡。 
 土塁上の城址碑。
土塁上から本丸跡を俯瞰する。 
 しろあと資料館。
おまけ:新城小学校校門。遺構ではありません。 


BACK