稲村城(いなむら) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 里見義実か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR内房線九重駅からバスに乗り、 「九重大井」下車徒歩10分 |
|
<沿革> 安房里見氏初代義実から2代成義・3代義通までの間に、白浜城・千田城に続く居城として 築かれたとされる。ただし、初期の安房里見氏については不明な点が多く、義実・成義には 非実在説もある。遅くとも、義通の代の16世紀初頭までには築かれていたと推測される。 天文二年(1533)、義通の子で4代当主の里見義豊は、叔父の里見実堯を稲村城に誘って 殺害した。これに対して、実堯の子義堯が仇討ちとして挙兵し、犬掛の戦いで義豊を打ち破り 自害に追い込んだ。 稲村の変ないし天文の内訌と呼ばれるこの争いは、従来は若年の義豊が短慮により実堯を 誅殺したため、義堯は致し方なく決起して義豊を討ったものとされてきた。しかし、近年の研究 により、実際は上総方面で勢力を拡大する実堯を、既に壮年の義豊が危険視して先手を打ち、 後北条氏の加勢を得た義堯が反撃に転じて義豊を討った下克上劇とみられている。 里見氏の家督を継承した義堯は、滝田城ないし宮本城を居城とし、稲村城はそのまま廃城 となった。 <手記> 稲村城は滝川に臨む小山を利用した城で、南方のみ細尾根で峰続きとなっています。国の 史跡に指定されていることもあってか、北東麓のスーパーおどやの北西に見学者用駐車場が あるようなのですが、私が訪れたときは何やら工事中で停めてよいのか分かりませんでした。 館山市観光協会に電話してみたところ、そもそも駐車場あるとは知りませんなどと訳の分から ない無気力な対応で、何の役にも立ちませんでした。仕方ないので城山西麓の稲集落を走行 していると、防火水槽の脇に車1台はしっかり止まれるスペースがありました。より城山に近い 稲村院阿弥陀堂の墓地南側にも、1〜2台駐車できそうです。 城山へは、貴船神社参道手前から堀底道を伝って行くことができます。登った先は細尾根の 鞍部で、その南側には中郭部と書かれた標識があります。中郭部が何を意味するかは定かで ありませんが、休耕地の平場があるので、家臣団屋敷的な曲輪かと思われます。その脇には、 正木様と呼ばれる祠のある小ピークがあります。曲輪形成はそこまできちんとされている様子 はなく、正木氏といえば里見義豊ではなく義堯とつながりの深い新参の家臣のため、稲村城と どのようなかかわりがあるのかは不明です。 尾根を北上すると、まもなく主郭背後の堀切があります。堀切を抜ければ主郭東側の堀切が もう1条あり、その先にも曲輪が伸びています。西に回れば帯曲輪があり、虎口を経て主郭に 至ります。主郭には北東隅にもう1つ虎口が開いていて、南側背後に高土塁が設けられている のも特徴です。とくに虎口は2つとも比較的明瞭で、郭内もきれいに整備されていて冬場なら 遠く富士山まで望めます。 堀切を隔てた東尾根にも、土塁に囲まれた広めの曲輪があります。その先は、堀切と土橋を 経て東麓へ下りる道があったようですが、今では荒れて立ち入り禁止となっており、それ以上 進めません。 中郭部へ戻り、そこから南西尾根へ行くと、途中に腰曲輪状の削平地がいくつか見られます。 休耕地のようなので後世の造作の可能性はありますが、さらに行くと虎口状の切り通し道や、 その外側には明らかに人工の横一文字切岸も見受けられます。中郭部の南にも、根小屋など の城域が広がっていた可能性も考えられるでしょう。 稲村城は、堀切や土塁の造作はしっかりしているものの、主城域自体はさほど規模が大きい とはいえません。他方で周囲に家臣団屋敷などが設けられていたとも推測され、初期里見氏の 支配の様子をそのままに残す城跡として、たいへん興味深いといえるでしょう。 |
|
西麓から城山を望む。 | |
登城路。 | |
中郭部。 | |
中郭部のようす。 | |
正木様入り口。 | |
正木様。 | |
正木様の丘を望む。 | |
主城域へ向かう細尾根。 | |
主郭背後の堀切。 | |
主郭西側中腹の曲輪跡。 | |
主郭西下の帯曲輪。 | |
主郭虎口。 | |
同上。 | |
主郭のようす。 | |
主郭からの眺望。 | |
主郭から富士山を望む。 | |
主郭背後の土塁。 | |
主郭北東隅の虎口。 | |
主郭東側の堀切。 | |
主郭東尾根の曲輪と土塁。 | |
東尾根の曲輪先の堀切。 | |
東尾根の曲輪の虎口跡。 | |
東尾根の曲輪先の土橋。 | |
中郭部南西尾根の腰曲輪状削平地。 | |
中郭部南西尾根の虎口状の切り通し。 | |
切り通し外側の切岸。 |