白井城(しろい) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 長尾氏 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、空堀、櫓台、虎口 | |
交通 : 関越自動車道渋川ICより車で10分 | |
<沿革> 上野国守護代白井長尾氏の居城である。白井長尾氏の祖は、山内上杉憲顕に仕え、上野・越後 両守護代に任じられた長尾景忠である。景忠の子の代に、後に上杉謙信を輩出する越後長尾氏が 分かれ、景忠の孫の代には上野守護代も総社長尾氏と白井長尾氏の2家に分かれた。それまでの 上野国における長尾氏の拠点は蒼海城にあり、白井城は白井長尾氏初代清景によって築かれた ものと考えられている。ただ、それ以前にも白井氏の存在が認められるため、前身となるようなもの がすでにあったことも考えられる。 清景の孫景仲は、15世紀の永享の乱や結城合戦を通じて白井長尾氏と主家山内上杉氏を発展 させたが、その子景信の死後、守護代職が景信の子景春ではなく総社長尾氏を継いでいた弟忠景 に譲られたことから、文明八年(1476)に長尾景春の乱が勃発した。この乱の鎮定にあたって、越後 上杉定昌の軍勢が長享二年(1488)まで白井城に駐屯していた。 景春は太田道灌に敗れて一時城を逐われていたが、道灌の死後の永正二年(1505)に白井城に 復帰した。その後、越後国の長尾為景と結んで平井城の上杉顕定に対抗するが、顕定の子憲房に よって逆に白井城を落とされてしまった。やがて、顕定が為景に敗死させられると、白井城の憲房を 攻めて再び城を奪還した。なおも憲房と戦おうとする景春に対し、景春の子の景英は上杉家の家督 争いに際して憲房を支援しようとしたため、親子の対立が起こった。憲房が家督争いに勝ったため、 景英が白井長尾氏の当主となった。 景英の子景誠は、総社長尾氏や長尾為景と結んで上杉氏と対抗しようとした。しかし、家督を継承 した翌年の大永八年(1528)に、家臣によって殺害された。白井長尾氏には、当時勢力を拡大して いた箕輪城の長野業正の仲介により、総社長尾氏から長尾憲景が入嗣した。 弘治三年(1557)、主君上杉憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)を養子として家督と関東管領を 譲ると、白井長尾氏も景虎に従った。しかし、永禄八年(1565)、甲斐武田氏の侵攻により白井城は 落城し、武田家臣甘利昌忠が入城した。憲景は謙信を頼って落ち延び、一度は白井城を奪還した ものの、元亀二年(1571)に真田昌幸によって再び城を落とされた。なおも抵抗を続け、謙信の援軍 をもって再々度白井城を回復したが、これ以降憲景とその子輝景は上杉氏と武田氏の間を行ったり 来たりするようになった。 天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、憲景の跡を継いでいた輝景は、代わって関東に進出し てきた滝川一益に従った。同年の本能寺の変で一益が退くと、輝景は弟景広を人質として北条氏に 従属した。同十八年(1590)に豊臣秀吉による小田原の陣が始まると、兄の跡を継いでいた景広は 城に籠るが、上杉景勝・前田利家の大軍に包囲され開城した。景広は後に上杉氏に仕えた。 小田原開城後、徳川家康が関東に入封すると、白井城には本多広孝が1万2500石で入り、その 子康重は同地に2万石を与えられた。現在残る遺構は、この時代の拡張によるものである。 関ヶ原戦後、康重は岡崎5万石に転じ、白井には戸田松平康長が2万石で入城した。その後は、 井伊直孝、西尾忠永、本多紀貞と城主が交代した。紀貞が嗣子なくして没すると、白井藩は廃藩と なり、白井城も廃城とされた。 <手記> 白井は、中心部を沼田街道が抜け、南端で吾妻川と利根川が合流する要衝の地で、城は吾妻川 の段丘上に築かれています。 現在の遺構は多くが本多氏時代の拡張によるものですが、中心部の縄張りや掘割などはおそらく 中世のものを利用していると思われます。保存状況は良好で、本丸虎口の石垣や土塁、空堀などが 一目でそれと分かるほどはっきりと残されています。二の丸以下外郭部は民家や畑地に利用されて いますが、それでも空堀や土塁がそのままの形で利用されているため、手に取るように当時の様相 がうかがえます。 残念なのは、城址への行き方等の案内が不足していることと、これといった駐車場がないことです。 また、城下には旧白井宿の町並みが保存されているのですが、町おこしが上手くいっていないのか やや閑散とした印象を受けました。 ちょうどアジサイが綺麗に咲き誇っていたのですが、それでも夏場は草木深くおすすめできません。 |
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本丸虎口の石垣と碑。 | |
本丸のようす。 | |
本丸の櫓台。 | |
本丸の空堀。 | |
二の丸の空堀。 | |
櫓台と思われる盛土。 | |
帯曲輪と堀切。 | |
先端部の堀切。 |