菖蒲城(しょうぶ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 足利成氏
 遺構  : なし
 交通  : JR高崎線桶川駅または宇都宮線蓮田駅
      からバスに乗り、「新堀」下車徒歩5分


       <沿革>
           康正二年(1556)、享徳の乱で山内上杉氏と争っていた古河公方足利成氏によって
          築かれ、金田式部則綱が城将に任じられた。則綱は近江佐々木氏の末裔をされるが、
          詳しい系譜は不明である。その後、金田氏は菖蒲佐々木氏とも称した。
           則綱の後も、氏綱・顕綱・定綱・頼綱・秀綱と6代にわたって金田氏が城主を務めた。
          この間、天正二年(1574)には関宿城の救援に越山した上杉謙信によって、菖蒲城は
          騎西城はなどとともに攻め落とされた。騎西城は永禄六年(1563)にも上杉氏によって
          落とされているため、菖蒲城も攻められた可能性があるが定かでない。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、菖蒲城で戦いがあったかどうか詳らかで
          ない。役後、廃城となったとされる。


       <手記>
           城跡は「菖蒲城址あやめ園」となっていて、花の時期には臨時駐車場が設けられる
          ほどにぎわうそうです。城名については、五月五日の菖蒲の節句に完成したからとも
          いわれていますが、築城の経緯を考えると、そんな優雅なことを言ってられる状況に
          あったとはちょっと考えられません。
           園内に石碑や江戸時代の下栢間陣屋の移築門などがありますが、遺構はまったく
          残っていません。周囲を見渡しても低地の水田が広がっていて、一見すると、本当に
          ここに城砦があったのかと訝りたくなるような地形です。古地図を見ると、現在の新堀
          の町場がある丘からUの字型に北西から回り込んで細い微高地が伸びていて、菖蒲
          城はその先端を利用して築かれていたようです。『日本城郭大系』によれば、かつて
          は土塁や堀もあったそうですが、道路建設や耕地整理により一帯が削り均されたそう
          です。今では当時の地形を推察することも困難になっていて、なんとも残念です。

           
 菖蒲城址あやめ園のようす。
菖蒲城址碑。 


BACK