1、はじめに
中世城郭ファンを自認していて、個々の城の縄張りに関心がないという方は、まずいないでしょう。なかには縄張り図 を描くことが目的の方も少なからずいらっしゃいます。地の利や技術、防御構想などを基に、予算や用途などの現実的な コストとの折り合いのなかで紡ぎ出される十城十色の縄張りは、城の機能美としての魅力を体現しているといえます。 一定量の城跡を目にすると、それぞれの城館の特徴が自然と見えてくるようになります。それは縄張りについても同じ ことで、地域や所属勢力、あるいは時代ごとに類似点や相違点があることが分かってきます。とりわけ、各大名にとって 築城術は軍事機密の一つであり、グループごとの特徴が出やすい分類単位であるといえます。例としては、甲州流軍学と して後世に名高い武田氏の丸馬出しや三日月堀、その隣国北条氏の角馬出し、あるいは徳川氏の出桝形などが比較的よく 知られています。変わったところでは、山陰の雄尼子氏の城には堀があまり使用されず縄張りが単純であるといったもの もあります。 ただし、こうした大名ごとの特徴というのは、上に挙げた例を見ても明らかなように、たいていトップクラスの勢力に ついて語られがちです。もちろん、勢力が大きいほど城にコストをかけることができ、比較に足るだけの相違点が浮かび 上がりやすいですし、そもそも有名な大名でなければ話題になりません。ですが、こうした大勢力に呑まれていった周辺 勢力(といっても充分に大名クラスではありますが)の特徴というものも、注意深く探っていけばとても興味深く、また 文字通りのディスカバー(覆いを剥がして発見する)の達成感を得られるものであると考えます。 こうしたスタンスのなか、私のなかで最近気になっているのが、表題の通り山内上杉氏の城跡です。山内上杉氏は上野 ・武蔵の二国を地盤として関東管領を歴任し、多くの家に分裂していた上杉家の事実上の宗家として振る舞っていました。 しかし、南から新興の北条氏が勢力を拡大すると、その圧迫に耐え切れず、越後国の長尾景虎を頼って落ち延びました。 景虎は山内上杉氏の名跡を継ぎ、後に上杉謙信と号することになります。その後の上野国は、北条・上杉・武田の三氏が 入り乱れる係争の地となり、かつての山内上杉氏の影は歴史に埋もれていくことになりました。 ところが、近年私が上野や武蔵の城館跡を訪ね歩いた限りで、山内上杉氏の城の特徴と見るべき共通点を感じるように なりました。この私見を提起することによって、中小勢力の城館の特徴という議論のたたき台となることができれば、と 考えています。また、山内上杉氏の城の特徴を挙げることで解決でき得る現下の問題として、「杉山城問題」なるものに 触れてみたいと思います。
2、山内上杉氏の城の特徴:横堀の多用
さて、これ以上の前置きは必要ないでしょうからズバリ結論から申し上げますと、私の見たところの山内上杉氏の城の 特徴は、横堀の多用にあると考えています。とはいったものの、そもそも「横堀」とは何かという問題がまず浮上するで しょう。堀や曲輪(郭)は、用途や形状によって通常いくつかの種類に分類されています。曲輪であれば、本丸や二の丸 といった中心的なものに加え、腰曲輪や帯曲輪、武者隠しといった呼称が存在します。堀については、普通の堀や堀切、 竪堀や畝堀、そして横堀などの呼び名があります。管見の限り、これらの呼び方の境界は曖昧で、共通の定義は決まって いないように思われます。趣味のレヴェルであれば、何となくの使い分けで構わないでしょうが、学術レヴェルとなると そうはいきません。というより、言葉の定義をしないというのは、学術界においては致命的な説得力の欠如であると思う のですが、この点城跡研究を生業としている方々がどのように考えているのか気になるところです。 そこで次節では、勝手ながらまず横堀の定義を個人的にさせていただきたいと思います。 2-1 横堀の定義
そもそも堀とは、地面を掘りこんで凹状の窪地を作り、敵がまっすぐに侵入できないようにする設備です。すなわち、 敵兵を直進させないことが目的である以上、通常堀が設けられる地形は「形成面とその城外側の地面がフラットである、 ないし城外側の方が高い」という要件に基づいています。平城の場合は、どこに堀を設けてもほとんど同じといえます が、山城においては、堀の設置ポイントは地形に大きく制約されます。ただ、文字で書いても分かりにくいと思います ので、拙いお手製の図で説明します。
上の図のような地形で、@〜Bのポイントにすでに曲輪が造られているとします。このとき、上述の条件を当て嵌めると、 A・B・Cの3ヶ所が該当し、D・Eの2ヶ所は要件を満たしていないことになります。A・B・Cに掘られた堀のうち、 地続き面の端から端まで切断する形になっているものを堀切、そうなっていないものを通常単に堀と呼びます。 ここでD・Eについてみてみると、どちらも登り斜面の中途であり、堀を設けずともすでに敵がすんなり侵入できない 障壁となっています。ですので基本的には何も手を入れなくても、天然の防御施設となっているわけですが、この斜面に 選択的に作られる形式の堀が2種類あります。1つは、斜面の向きに対して並行に掘られる竪堀です。まったく並行でない 場合もありますが、斜面を引っ掻いたように縦に伸びているのが特徴です。もう1つが、斜面の向きに対して垂直に掘ら れる横堀です。その名のとおり、たいてい山腹に横向きにせり出すように作られているのが特徴です。 すなわち、定義として明文化するなら、「その城外側の方が低く、斜面の向きと垂直に掘られた堀」となります。さら に、横堀には大きく2つのパターンがあります。1つは上図のDやEのように斜面の中腹に設けられる場合。もう1つは、 斜面上の曲輪の周縁に掘られる場合です。これを視覚化するために、富士山のような、あるいはプリンのような単純な山 の上に単郭の城があり、その周りにこの2種の堀を配置したところを図に表してみます。
どうでしょう…。思ったより上手く表現できていないように思うのですが、山頂の一つの曲輪を守るための堀としては、 かなり特殊な位置にあることは読み取っていただけるのではないでしょうか。実際、通常の堀はもちろん、堀切や竪堀 と比べても、横堀の使用例は全国的にもかなり少ないと思われます。 2-2 山内上杉氏の城における横堀の例 私がこれまで訪れた山内上杉氏の城館跡は、正直に申し上げて十分に多いとはいえません。ですが、山内上杉氏の拠点 である上野南部および武蔵北部でこれまで訪れた、あるいは先人の縄張り図を目にしたなかで、横堀が重要なファクター として組み込まれている城を挙げていくと、高山要害山城、山名城、磯部城、桃井城、花園城、花園御嶽城、天神山城、 山田城などがあります。なかでも整備が行き届いていて分かりやすいのが、麻場城です。
いかがでしょう、このようなコーナーに載せることを予期していなかったので肝心なポイントが見えそうで見えません が、横堀の向こうに土塁があり、その向こうはまた斜面となっています。つまり、斜面の真上にそのまま塀や柵を設けれ ば良いところ、わざわざ両者の間に一つ堀を掘っているわけです。必ずしもものすごく珍しいというわけではありません が、そうあちこちで見かけるタイプの縄張りでもないと思われます。そして、山内上杉氏の城館のうち高低差のあるもの には、この横堀が使用されている例が他の勢力圏よりも多いように感じられるのです。 その他の例についても写真を上げて紹介したいところなのですが、紙幅が大きくなるばかりですので、個別のページを ご覧いただければと思います(鋭意制作中です^^;)。 2-3 横堀にみる防御構想 堀の形式としては珍しい横堀が山内上杉氏の城館に多用されているとして、そこにはどのような意図があるのでしょう。 この点について、まずは横堀の用途について考えてみます。 前述のとおり、山の斜面はそれだけで天然の防御設備です。その中途に横堀を設けるということは、もう1つ登りにくく する障壁を増やしている一方で、堀底に到達できた敵兵には腰を落ち着かせたり左右に攻撃を避ける足場を与えてしまう というデメリットもあります。したがって、横堀の目的は、堀底に至る手前にあるといえます。 山の斜面に堀を設けるということは、堀の外側は例外なく細い土塁となります。敵兵がこの土塁上に立つと、守備兵と との間に堀幅の分だけ距離が生まれることになります。その代わり、両者の高低差は縮まり、とくに曲輪の周縁に横堀が 設けられている場合は、ほぼゼロとなります。こうした位置関係がどのような効果をもたらすのかと考えると、「射程」 という要素がキーワードとして浮上してきます。 銃火器が普及する以前、攻城戦における守備側の武器として使われる代表的なものは、おそらく弓、槍、そして石礫と いったあたりでしょう。もちろん使えるものは何でも使ったでしょうが、重要なことはできるだけ遠くにいるうちに敵兵 を撃退したいということです。ここで、真下から斜面を敵兵が登ってきた場合、斜面が急であればあるほど、まず弓矢で 射ることが難しくなります。また、槍についても、もし下にいる敵兵に柄を掴まれてしまうと、引っ張り合いでは重力の 関係で下にいる方が有利となります。このとき、横堀があると、敵兵は堀外の土塁の上で一旦つっかえ、守備兵の眼前に プールされることになります。弓でも槍でも狙いが付けやすく、攻撃を受けた敵兵は斜面側へ転落することになります。 つまり、横堀は敵兵を弓槍の射程圏に収める際にもっとも有効であると考えられます。 他方で、戦国時代後期に入って鉄砲が普及すると、話は変わります。鉄砲は遠距離からでも銃口さえ出ていれば敵兵を 抑えこめるため、横堀にともなう土塁は、砲兵が身を隠して射撃に専念できる塹壕代わりになってしまいます。実際に、 戦国時代後期以降の城館からは、横堀はほとんど姿を消し、代わって竪堀が急速に普及することになります。竪堀の目的 は、横堀とは逆に敵兵の横移動を封じ、敵を直線的に登らせるところにあります。鉄砲は射程が飛躍的に伸びる一方で、 命中精度に難が生じる兵器です。ですが、敵兵が同じルートを真っ直ぐ登ってくるようにできれば、照準の問題はクリア でき、かなり遠くからでも狙撃できるようになります。こうして、銃火器の時代の到来とともに横堀は姿を消しました。 同じく山内上杉氏も、鉄砲伝来から9年後の天文二十一年(1552)に上杉憲政が越後の長尾景虎を頼って落ち延びたこと により、関東から姿を消すことになりました。 鉄砲の普及によって衰退した横堀が、山内上杉氏の築城術の特徴であると言えるならば、一地方勢力の特徴というだけ でなく、上武州における勢力圏の変遷を知る重要な示準遺構であるといえるでしょう。 2-4 示準遺構としての横堀 さらに手前勝手に論を進めさせていただくと、横堀の多用を山内上杉氏の築城術の特徴であると仮定することにより、 後述する杉山城問題をはじめ、これまで曖昧あるいは議論の的とされてきた境目の城の所属がはっきりし、当時の勢力圏 の様相が明らかとなってきます。 そうした示準遺構としての好例といえるのが、武州松山城と山田城でしょう。武州松山城は東松山市街の東に位置し、 扇谷上杉氏の重要拠点として築かれました。山田城の方は、松山城の北西5qほどのところにあり、現在は東武東上線の 森林公園駅の由来として知られる国営武蔵丘陵森林公園の敷地内にあります。従来この山田城は、松山城の支城と捉え られることがほとんどでした。ですがその縄張りをみると、楕円形の土塁の外側は横堀となっており、その内部は複雑 な土塁と堀で仕切られています。横堀についてはもちろんのこと、この郭内をさらに折れを多用した堀や土塁で仕切る という構造は、山内上杉氏の上戸陣とよく似ています。上戸陣は、長享元年(1487)にはじまる長享の乱に際し、扇谷 上杉氏の居城川越城を攻めるために、南北朝時代までの河越氏の居館河越館跡に築かれたものです。 こうした類似性を辿ると、山田城についても松山城の支城ではなく、少なくとももともとは長享の乱において松山城 と対峙した山内上杉氏が陣城として設けたものと考える方が、理に適っているといえます。とすれば、示準遺構が定ま ることによって、中世城郭史の解釈のみならず、当時の勢力図の見方自体が大きく変わる可能性を有しているといえる のです。
3、杉山城問題
この松山城からさほど遠くないところに、杉山城址があります。屏風折れの土塁や喰い違いの虎口など、非常に技巧的 な縄張りをもち、築城学の教科書のように扱われることもしばしばです。さらに素晴らしく、そして有難いことに、この 城跡は城山全体が私有地でありながら、地権者の厚意によって一般に公開され、行政の整備を受けています。杉山城は、 見学しやすいうえに優れた構造をもっているにもかかわらず、史料にはほとんど登場せず、歴史上謎の城とされています。 この杉山城を巡り、(自称)専門家の間では「杉山城問題」なるものが存在するそうです。ただし、この言葉はウィキ ペディアでしか見たことがなく、本当にそのような独立した論争があるのかは定かでありません。ウィキの杉山城の項目 によれば、この問題は杉山城の築城主について、考古学サイドが発掘調査の結果から山内上杉氏と推定しているのに対し、 城郭史研究サイド(ウィキの表現にしたがえば「縄張り研究者」)がその縄張りの巧妙さから北条氏であると唱えている ことに端を発しているそうです。 たしかに、先述の虎口や土塁の工夫からは、少なくとも北条氏が最終的な改修者であることが感じ取れます。しかし、 築城者については、私は考古学サイドの見解を支持しています。そして杉山城が山内上杉氏によって築かれたとする根拠 は、発掘調査のみならず、縄張りの面にも求めることができると考えています。 キーワードはもちろん横堀です。杉山城には多くの堀が穿たれていますが、そのほとんどが横堀です。麻場城と同じく 樹木が整理されて見通しの利く杉山城の横堀群を見渡せば、北条氏の城跡を見慣れた人にはやや特異に映るのではないで しょうか。逆に、山内上杉氏の城跡を見慣れていれば、さほど違和感は覚えないでしょう。
杉山城内でもっとも山内上杉氏らしさを感じるポイントは、北東端の曲輪です。この曲輪は、北東に向かって緩やかに 伸びる尾根の中途に、わざわざ四周に堀と土塁を巡らして作られています。尾根の両サイドに面した部分が横堀となって いるのですが、その外側の斜面がかなり緩く、曲輪というよりまるで丘の上の祭壇のような外観です。後北条氏が最初に 築いたとすると、このような構造の曲輪になるとは、ちょっと考えにくいように思います。
北東端の曲輪
さらに、杉山城の特徴として、本丸の南側は曲輪や虎口が折り重なっていて防備が厳重なのに対して、北側には広めの 曲輪が二つ続いているだけで、だいぶ手薄であるという点があります。もし北条氏が築城主であれば、仮想敵は北の山内 上杉氏ですから、北側の方が南側より手薄であるというのは理に適いません。この点は北条氏築城説にこだわる「縄張り 研究者」にとっても、悩ましい論点のようです。学研の『戦国の堅城』では、「縄張り研究者」の一人であると思われる 西股総生氏なる人物が、「火力による迎撃兵と転進反撃用の出撃兵を詰めるために曲輪の面積を広くとってあるから合理 的なんだ」といった趣旨の説明を試みています。ですが、これはどう考えても結論ありきの無理手で、もし西股氏のいう 通りであれば、今度は主郭の南側にわざわざコストをかけて手の込んだ造作をしている理由が説明できなくなります。 これについても、最初から仮想敵が南にあった、すなわち扇谷上杉氏や北条氏と争っていた山内上杉氏が築城主である とすれば、難なく疑問は氷解します。すなわち、山内上杉氏が拠点城として築いた杉山城を北条氏が攻め落とし、その後 しばらくは虎口を改修するなどして使っていたが、山内上杉氏を駆逐すると戦略的価値もなくなり打ち捨てられたものと 推測すれば、考古学上も縄張り上も、とくに問題のないストーリーに仕上がると思われます。そして、山内上杉氏の城の 特徴という見地に立てば、そのストーリーを支えるに足る状況証拠になり得るものと考えられます。
4、おわりに
以上、北条・(越後)上杉・武田の三氏の影に隠れがちな山内上杉氏の城の特徴を考えるところから、城郭研究業界に おいてはホットな議論と思われる杉山城問題にまで論を進めてみました。本稿を書いていて改めて考えさせられたのは、 杉山城問題でどちらが正しいかなどということではなく、論を展開するに当たって定義付けが重要であるということと、 自分の意見を先走らせて結論ありきの説明に奔らないように心掛けるべきであるという点です。どちらも常日頃から肝に 命じておかなければ、容易におろそかになってしまいがちです。とくに、城郭研究に限らず、失われた歴史を探るという 作業にはつきものの落とし穴ですので、私自身、皆様のご指摘を真摯に受け止めながら心していかなければなりません。
今回も、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。