田口城(たぐち)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 田口氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、石積み
 交通  : JR小海線龍岡城駅徒歩25分


       <沿革>
           応永七年の大塔合戦の顛末を記した『大塔物語』に、信濃守護小笠原長秀が使者を送った
          国人の1人として、伴野氏・平賀氏・望月氏など佐久の名族に並んで田口氏の名が挙げられて
          いる。田口城はこの田口氏によって築かれたとされているが、確証はない。また、『諏訪御符札
          之古書』には「田口民部長秘」「田口長経」「田口民部少輔長綱」といった名がみられ、「長」の
          通字から小笠原氏の一族とも考えられるが、田口氏の出自についても定かでない。
           甲斐の武田信虎が重臣板垣信方を佐久郡に送った天文九年(1540)以降に、田口氏は武田
          氏に従ったものとみられる。しかし、同十七年(1548)に信虎の子晴信(信玄)が上田原の戦い
          で村上義清に大敗すると、これを機として、田口城の田口長能を含め佐久の国人らが蜂起した。
          『妙法寺記』には、「柵郡田ノ口ト申候要害へ小山田出羽守殿為大将御働候 去程ニ信州ノ人数
          甲州衆ヲ籠ノ内ノ鳥の様ニ取籠申候ヲ (中略) 佐久郡大将ヲ悉ク打殺ス 去程ニ打取ル其数
          五千計 男女生取数ヲ不知」とある。小山田出羽守とは、郡内小山田氏の小山田信有を指し、
          信有が田口城を攻めたところ逆に囲まれたが、調略や晴信の出陣もあり(中略部分)、国人勢
          を逆にことごとく討ち果たしたことが記されている。これにより田口氏は滅び、田口城には相木
          (阿江木)氏流依田氏の依田能登守が入れられた。能登守については、相木城主相木昌朝
          の子で、相木氏の系譜に相木市兵衛や能登入道常善、信玄の弟信廉の娘を娶った相木頼房
          といった名で挙がっている人物と同一ともされる。ただし、相木父子の系譜にはかなり混同や
          混乱がみられる。
           天正十年(1582)の天正壬午の乱に際し、田口城は徳川方の依田信蕃に攻められ落城した。
          能登守は北条氏を頼って落ち延びたとされる。その後の田口城については不明である。


       <手記>
           田口城は、日本で唯二の星型要塞として知られる龍岡城の北の峰上にあります。もちろん
          田口城の方が歴史が古く長いのですが、今日ではむしろ龍岡城の展望台として引き立て役の
          ようになってしまっています。
           城へは、徒歩であれば南麓の蕃松院門前の少し東側に登山口があります。蕃松院は平時の
          館跡とされ、依田信蕃の子康国が父の菩提を弔うために建立したものです。車であれば、北麓
          の谷筋から山上まで林道が延びています。ただし、城内にあたる終点には広い駐車スペース
          があるものの、林道自体は細くすれ違いは困難で、小型車でないと厳しいカーブもあります。
          対向車が来たらジ・エンドなので、私は林道入口近くに車を止めて歩いて登りました。車道なの
          で南麓からの道より距離はありますが、そのぶん緩やかで15分足らずくらいで登れました。
           田口城は前山城内山城といった他の佐久郡国人衆の拠点より明らかに規模の大きな城
          です。山上をとにかく段々に削平して曲輪面積を広く確保している一方、堀は背後の尾根筋に
          あるのみで、虎口などの工夫もほとんどないのが特徴です。国人領主レベルではとうてい守り
          切れる広さではなく、少なくとも武田氏、あるいは北条氏や徳川氏によって、大軍を収容する
          陣城として拡張されたのではないかと推察されます。また、ところどころ石積みが見られますが、
          後世に積み直されたものもあると思われ、どこまでが城の遺構なのかは判断に窮します。

           
 本丸のようす。
本丸南側斜面の帯曲輪群。 
 本丸斜面の石積み。
本丸下の曲輪から本丸を見上げる。 
 武者隠し状の曲輪。
龍岡城展望台裏手上の曲輪。 
 展望台近辺の石積み。
展望台から龍岡城跡を俯瞰。 
 本丸背後の堀切。
同上。 
 北の丸付近の土塁。
林道沿いの土塁と腰巻状石積み。 
こちらは後世のものか。 
 西の丸の土塁。


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