高島城(たかしま)
  別称  : 島崎城、諏訪の浮城
  分類  : 平城
 築城者 : 日根野高吉
  遺構  : 石垣、水濠
  交通  : JR中央本線上諏訪駅徒歩15分


       <沿革>
           天正十年(1582)の本能寺の変に乗じて旧領を回復した諏訪頼忠は、変後に信州へ
          進出した徳川家康に従属し、金子城を築いて居城とした。同十八年(1590)、小田原の
          役後に家康が関東へ移封となると、頼忠も従って武蔵国奈良梨へと移った。代わりに
          諏訪3万余石を与えられた日根野高吉は、金子城を破却して諏訪湖に浮かぶ小島に
          築城を開始した。これが近世高島城である。「近世」とするのは、頼忠の金子城以前に
          諏訪の中心であった茶臼山城も、別称高島城と呼ばれていたためである。
           築城は足掛け7年に及んだが、地盤の軟弱な湖水上の普請は困難を極めた。金子城
          の石材は悉く運ばれ、寺社の墓石や木材も転用された。領民は過酷な労働を強いられ
          たらしく、村をあげて逃散した記録もあるという。
           こうして誕生した諏訪の浮城であるが、高吉は関ヶ原の戦い直前に世を去り、その跡
          を継いだ吉明も、戦後に下野壬生へ転封となった。再び諏訪氏が領主として返り咲き、
          「諏訪の殿様良い城持ちゃる 後ろ松山前は湖(うみ)」と謳われた高島城は、江戸時代
          を通じて諏訪家の居城となった。
           頼忠の子で初代藩主となった諏訪頼水は、戦の世の終焉を覚り、諏訪湖水の出口で
          ある釜口を広げて干拓を行った。高島城周辺は陸地となり、浮城としての姿を失った。
          干拓地として得られた城の周囲は家臣の屋敷地や田地に利用され、城としての防備は
          全くといってよいほどなされなかった。頼水の慧眼どおり、高島城は一度も戦火を経験
          することなく明治維新を迎えた。


       <手記>
           現在高島城は、本丸域のみが公園として残され、鉄筋コンクリート製の天守や櫓・門
          が復興されています。「諏訪の浮城」とは高島城のごく初期の話ではありますが、それ
          でも水濠に映える天守や石垣、木橋などの一群は十分に優美な姿を見せています。
           湖岸に沿って上諏訪温泉のホテルが立ち並ぶため、天守からの眺望は必ずしも開け
          ているとはいえません。天守内部は資料館となっています。
           遺構として見られるのは本丸のみですが、大手道であった縄手の鉤字は、今も縄手
          通りとして残っています。また三の丸跡には、「真澄」で知られる宮坂醸造の蔵元があり
          ます。
           面白いのは本丸の西側で、北や東側の立派な石垣や濠とは正反対に何ともお粗末な
          姿です。これは近年の開発によるものではなく、どうやら当時からこのような感じだった
          ものと思われます。軍事より経済を優先させた先見の明がここにも伺えます。


           
 復興天守、隅櫓を望む。
  本丸冠木門と復興天守。 
門の両側に武者溜りがせり出す珍しい構造。 
 天守近望。
 本丸西側のようす。 
当時からこのようなお粗末な姿だったようです。 
 西側下から天守を見上げる。


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