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高月城(たかつき) |
別称 : 高槻城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大石顕重か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、空堀 | |
交通 : JR五日市線東秋留駅徒歩25分 またはJR拝島駅よりバス。「高月集会所前」バス停下車。 |
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<沿革> 長禄二年(1458)、武蔵国守護代大石顕重によって築かれたといわれる。当時、関東は 享徳の乱のさなかにあり、顕重の主家である関東管領上杉氏と、鎌倉公方足利成氏の 対立が先鋭化していた。 その後、高月城は大石氏の居城となったとされるが、その根拠として諸文献で取り上げ られているのは、聖護院門跡道興准后の『回国雑記』の記述である。准后は、文明十八年 (1486)から翌年にかけて、「大石信濃守といへる武士の館」へ招かれている。その館に ついて同書では、「庭前に高閣あり、矢倉など相かねて侍りけるにや 遠景勝りて 数千里 の江山眼の前に面きぬとおもほゆ」とある。この記述がもっとも適合するのが高月城である とするものであるが、根拠としては断定に足るものではない。大石氏は二宮城から高月城 へ居城を移したと一般的にいわれるが、確証があるわけではない。 結局のところ、高月城に関する史料はほとんどないに等しいといえる。定説では、顕重の 子定重が大永元年(1521)に滝山城を築き、高月城から移ったとされる。 廃城時期については不明である。 <手記> 高月城は、秋川の湾曲部に突き出た加住丘陵の突端を利用して築かれています。鋭角 二等辺三角形のような形状の丘で、南西のみ細尾根をして地続きとなっています。 登城口は、城内の北端近くにあるホテルの向かいにあります。このホテルは結構前に 廃業したようで、廃墟マニアが喜びそうな感じになっています。このホテルの裏手に大きな 空堀があり、城内にいくつか残っている堀のなかでも、ここのものがもっとも良く残っている ように思われます。 主郭へは、曲輪の間を縫うように走るつづら折れの土手道を上ります。主郭は、それまで 抜けてきた腰曲輪に比べて格段に広く、おそらくここに城主の居館も営まれていたものと 推測されます。主郭周囲は土塁で囲われていたようで、南面のものが良好に残っています。 その先は人の手があまり入っていないようで藪がひどいのですが、細尾根を断ち切る堀切 が設けられています。 高月城は大石氏の居城といわれていますが、確証があるわけではなく、推測の域を出て はいません。しかし、大石氏のもとの居城とされる二宮城が、法林寺館ないしその周辺の 城館とすると、前時代的な武士の館である二宮の城からより防御力の高い高月城へ居を 移したというのは、論理的には妥当な推測と思われます。他方で、高月城から滝山城への 移転については防衛上の理由からといわれますが、これには問題があるように思います。 高月城も滝山城も南方が弱点と考えられるため、滝山への移転は何ら防衛上の問題克服 にはつながらないと思われるからです。もし、高月城から滝山城へ移転したというのなら、 詳細は滝山城の項で説明しますが、その理由は経済的なものであったと考えています。 また大石氏の滝山城移転後、高月城は廃城になったといわれています。しかし、大石氏 時代には廃城となっていたかもしれませんが、その後の北条氏時代には再度取り立てられ ていたのではないかと考えています。高月城の西には、「新城」ないし「二城」と呼ばれる 戸吹城があります。この城は、永禄十一年(1568)以降一時的に武田氏との関係が悪化 した際、檜原城・戸倉城から滝山城へと至るルートの防衛強化のために築かれたと考え られます。だとすれば、同じ経路上にある高月城も、改修を受けて再利用されたとみるのが 妥当ではないかと推測しています。そして、北条氏照が滝山城から八王子城へ移った際に、 再度廃城となったのではないでしょうか。 いずれにせよ、遺構は明確であるのに史料がほとんどないため、中世色を濃く残す謎の 城といえるでしょう。 |
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高月城登城口。 | |
ホテル裏手の空堀。 | |
主郭のようす。 | |
主郭南面の土塁。 | |
主郭北麓の空堀。 | |
小川城址(宝清寺)から高月城址を望む。 |