滝田城(たきた) | |
別称 : 滝田ノ城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 里見氏か | |
遺構 : 曲輪跡、堀、虎口 | |
交通 : 館山バイパス富浦ICから車で15分 | |
<沿革> 『安房志』によれば、稲村の変に伴う犬掛の戦いが行われた天文三年(1534)四月時点で、 稲村城主里見義豊の妹婿の一色九郎が城代であったと伝わる。同戦いで従兄弟の義堯に 敗れた義豊は、滝田城で自害したともいわれる。一色九郎も義堯によって攻め滅ぼされたと みられるが、詳細は定かでない。 『快元僧都記』によると、天文六年(1537)ごろには、義堯が滝田城ないし宮本城を居城と していたと推測される。ほどなく、義堯は久留里城へ移ったとみられ、早ければ天文三年時、 遅くとも久留里移城の際に、滝田城は廃されたものと考えらえれている。 <手記> 平久里川沿いの切り立った山上にある滝田城は、史実よりも伝奇小説『南総里見八犬伝』 のはじまりの舞台として有名です。そのため、峰の先端部に駐車場が完備され、県道沿いに 案内もあり、新説かつ訪ねやすい城跡といえるでしょう。 駐車場からは細尾根を登る遊歩道が付いていて、途中に小ピークが1〜2か所ありますが、 このあたりはまだ城域内ではないと思われます。ほどなく、伏姫と八房の像が建つやや広い ピークにに出ます。ここがとにかく要注意ポイントで、城址標柱や模擬櫓台などがあり、眺望 も開けているため主郭のように見えるのですが、主郭はもう1つ上の電線鉄塔が建っている ピークです。自分は何も知らず、奥に何も遺構がないかどうか確かめに行って、主郭後方下 の堀切を見つけて事なきを得ました。伏姫と八房の像の建つピークは、おそらく出丸だったの しょう。2段ほどに削平されていますが、遺構なのか近年の造成なのかは不明です。 主郭後方下の堀切はとてもはっきりしていて、ここでようやく城跡へ来た実感が持てました。 その上は腰曲輪を経て、八幡台と呼ばれる櫓台状の詰曲輪に出ます。八幡台の北側1段下 が主郭とされ、比較的広い曲輪となっています。 主郭から北東尾根を下っていくと、腰曲輪群が続いているように見えるのですが、いささか 藪気味になっていて全体像は把握できませんでした。途中、城門跡と標識のある虎口跡など もあり、八房の像のある南東よりも、北東の上総方面に主眼を置いた城であったと推察され ます。 滝田城の北東向かいには支城とされる高月城があり、高月城背後の龍喜寺は、里見義通 の開基とされています。滝田城が里見氏親族の持ち城というだけであれば、近くにわざわざ 当主が寺を開基するのは少々不自然に思います。支城をもち、滝田城自体もそれんありに 規模があるとなると、もともとは義通自身によって、仮の居城ないし上総進出の拠点城として 築かれた可能性も考えられるでしょう。上総への侵攻ルートを考慮に入れるならば、宮本城 よりも滝田城の方が即応力があります。一方、上総から攻められた場合は、宮本城の方が 守りやすいといえるでしょう。したがって、家督を簒奪して間もないころの義堯としては、両城 を併相互補完的に使い分けるのが合理的であったとする見方が成り立つのではないかと、 個人的に考えています。 |
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滝田城跡を南東から望む。 左手奥の鉄塔付近が主郭(八幡台)。 |
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駐車場脇の説明板。 | |
駐車場脇の登山口。 | |
伏姫と八房の像のあるピーク。 | |
同ピークの模擬櫓台と城址標柱。 | |
同ピークから館山平野方面の眺望。 | |
八幡台後方下の堀切。 | |
八幡台後方尾根の腰曲輪。 | |
八幡台(櫓台)跡。 | |
同櫓台跡。 | |
主郭から八幡台を見上げる。 | |
八幡台前方下の主郭。 | |
主郭の礎石。 | |
主郭前方下の城門跡とある虎口。 | |
主郭前方下の腰曲輪。 |