棚倉城(たなぐら)
 別称  : 亀ヶ城
 分類  : 平城
 築城者: 丹羽長重
 遺構  : 堀、土塁、虎口、櫓台
 交通  : JR水郡線磐城棚倉駅徒歩7分


       <沿革>
           元和八年(1622)、丹羽長重が江戸崎藩2万石から南郷5万石へ加増・転封された。
          長重は前領主の立花宗茂が居城とした赤館に入ったが、寛永元年(1624)に幕命を
          受け、棚倉盆地の中心部に新城の建設を計画した。
           目をつけたのは都々古別神社の境内であったため、神社は北西の馬場へ遷された。
          普請は翌二年(1625)正月に始まったが、長重は同四年(1627)に白河藩10万石へ
          加増・転封となり、代わって内藤信照が5万石で棚倉藩主となった。長重の移封は、
          棚倉城の一応の完成をみたことを受け、幕府が築城の名手である長重に白河小峰城
          の改修を担当させる目論見であったものとみられる。
           その後は、内藤家3代、太田資晴、越智松平武元、小笠原家3代、井上家2代、松井
          松平家4代、阿部家2代と、譜代・親藩の大名家が目まぐるしく入れ替わった。
           慶応四年(1868)の戊辰戦争に際し、棚倉藩は奥羽列藩同盟に加わった。棚倉城
          は、六月二十四日に板垣退助率いる800の新政府軍に攻め落とされ、城将を務めて
          いた隠居の阿部正外は城を棄てて保原へ落ち延びた。
           戦後、阿部家は表高10万石から4万石に減封され、明治四年(1871)の廃藩置県に
          よって、棚倉城と棚倉藩は廃された。


       <手記>
           現在の棚倉城は、堀を含めた本丸部分が亀ヶ城公園として良好に残されています。
          二の丸についても、北辺から西辺についてのラインは辿ることができるようです。石垣
          をほとんど用いない土造りの城ですが、水濠の幅は広く、縄張りは洗練されていて、
          近世を代表する城郭遺構の1つといって差し支えないでしょう。
           本丸の出入口は南北2か所あり、北側が通常の内枡形なのに対して、大手の南側が
          外枡形になっているのは大きな特徴です。土塁は高く、櫓台となっている箇所を中心
          に折れが設けられているのも確認できます。江戸時代初頭までこの地の要衝であった
          赤館が、残念な状態で公園化されているのを見た後だったので、まさに眼福でした。

           
 本丸北東隅の堀と土塁。
本丸北東隅の櫓台土塁を望む。 
 本丸北側の枡形。
本丸東辺土塁の上。 
 本丸南東隅付近の櫓台。
土塁上から本丸を俯瞰。 
 本丸南側の門跡。
本丸南側の外枡形。 
 本丸南東隅の堀と外枡形土塁。


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