立入城(たていり) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 松田秀興か | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : JR東海道本線守山駅徒歩20分 | |
<沿革> 松田秀興がこの地に城を築き、立入氏を称したとされる。秀興について、『守山城物語』では 飛騨高山の出身としているが、詳細は不明である。また、室町幕府の奉行人に同名の人物が いる。秀興の子とされる立入宗康の活動時期から鑑みて、年代的にも妥当している。宗康は、 皇室の食料や費用を預かる御倉職(みくらしき)となった。 立入氏については、別に六角氏が家臣高瀬氏の一族の者に立入因幡守清直と名乗らせ、 立入城主としたとする異説がある。しかし、清直という人物と宗康らとの関係を含めて、詳細は 不明である。 御倉職は宗康の子宗長、宗長の子宗継と受け継がれた。皇室の財政窮乏に瀕し、宗継は 永禄五年(1562)ごろから織田信長への接近を説いた。宗継自身同七年(1564)には清洲城 へ、同十年(1567)には岐阜城へ正親町天皇の勅旨として信長を訪ね、朝廷への支援と上洛 を促した。翌十一年(1568)に、信長は上洛の軍を興して近江の六角氏を追い払い入京した。 その後宗継は、信長や諸大名と朝廷の間の交渉係として活躍した。 『日本城郭大系』によれば、元亀元年(1570)に立入城が六角義賢(承禎)によって使われ たことが、『四月録』に記されているという。おそらく信長包囲網形成期における六角氏の蜂起 で、一時的に奪われたものと考えられる。 宗継は元和八年(1622)まで生きたが、立入城の廃城時期については不明である。 <手記> 立入城は、野洲川の左岸にあった平城です。南西500mほどのところに浮気城があります。 立入宗継は朝廷と信長の間で奔走した皇室の忠臣であり、またそうした諸大名との関わりの 多さから、重要な一次資料とされている『立入左京亮入道隆佐記』を著したことでも知られて います。 ですが、宗継の事跡に比して立入城の残存状況は良いとはいえません。集落内に土塁の 痕跡が散見されるほかは、とくに城跡そ示すようなものはありません。断片的な土塁を繋げて みても、いまひとつ城の全体像が見えてきません。 |
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立入城址土塁。 | |
同上。 |