東林寺城(とうりんじ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 北畠親房 | |
遺構 : 曲輪跡、堀跡 | |
交通 : JR常磐線牛久駅よりバス 「三日月橋生涯学習センター」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 牛久城を本拠とする大身領主岡見氏の城とされる。岡見氏は下総相馬氏の相馬胤村の子師房 にはじまるとされ、南北朝時代に小田治久の子邦知を婿養子に迎えた。また、この系統とは別に、 戦国時代の小田氏当主小田治孝の子治資および治孝の弟義治もそれぞれ岡見姓を称している。 したがって、岡見氏には少なくとも3つの家が存在したことになるが、一般的には東林寺城は宗家 とされる治資によって築かれたものと考えられている。ちなみに、治資は治孝の死から36年後に 生まれたことになっており、その出自には疑問が呈されている。 史料上の初出は永禄九年(1566)の『上杉文書』「小田氏治味方地利覚書」で、木原城主近藤 義勝の一族の城とある。近藤氏は、江戸崎城主土岐氏の家臣である。ここで、岡見邦知の子孫 である足高岡見氏の同時期の当主岡見頼勝ないしその次代の宗治は、土岐治英の弟とされる。 したがって、このころの東林寺城は足高岡見氏の影響下にあったものとも推測されるが、詳細は 不明である。 天正十年(1582)から同十八年(1590)の間の内容とみられる『岡見氏本知行等覚書写』には、 東林寺城が治資の子治広の弟五郎左衛門が城主であると記されている。また、慶長八年(1603) に多賀谷氏家臣野口豊前守が書き記した『野口豊前守戦功覚書写』には、天正十六年(1588)に 野口らが「東輪寺の城戸」へ攻め寄せたことが記載されている。 その後の東林寺城については不明である。天正十八年(1590)の小田原の役に際して岡見氏は 北条氏に属したため、戦後改易された。東林寺城も、このとき廃されたものと推測される。 <手記> 東林寺城は、牛久沼と稲荷川に挟まれた舌状に細長い台地の先端に選地しています。三日月 橋を渡った突き当りから登ることができ、上がった先に本丸の土塁と堀があります。ただ、先端部 は近年の工事で切り崩されていて、本丸の南側3分の1ほどは失われてしまっています。 本丸以外の曲輪は、細長い台地を堀切で切ることで形成されており、分かりやすい連郭式の城 といえます。二曲輪の堀は東林寺境内の南縁と重なっていて、藪に埋もれていたり墓地に呑み こまれていたりしていますが、櫓台状の土塁などがはっきり見てとれます。 最大の見どころは三曲輪の堀で、深くて広いうえに折れをもち、土橋の先の虎口脇にはやはり 櫓台状の土塁が残っています。この堀底を東側へ下ると、麓の道路へ出ることもできます。また、 三曲輪自体も非常に広大で、岡見氏が支城として維持できる規模とは思えません。方々で指摘 されている通り、後北条氏の軍勢の駐屯地として拡張された部分ではないかと推測されます。 三曲輪の先には四曲輪があり、堀と土塁も見受けられるのですが、こちらは規模も小さく遺構も 判然としません。その先にも台地は細く続いているので、堀切さえ設けてしまえばいくらでも城域 は広げられるのですが、しばらく歩いても何も無いようだったのでここまでと引き返しました。 城域の面積だけでいえば、おそらく岡見氏の居城牛久城よりも広いのではないかと思われます。 岡見氏を事実上支配下に収めた北条氏が、居城をそのまま接収してしまうのはばつが悪かった ので、その支城である東林寺城と分散して駐留地を設けたのではないかと考えられます。 |
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東林寺城跡遠望。 | |
本丸の堀と土塁。 | |
本丸の土塁北東隅。 | |
二曲輪の堀跡と櫓台状土塁。 | |
東林寺境内東辺の土塁状地形。 | |
三曲輪北半分のようす。 | |
三曲輪堀脇の櫓台状土塁。 | |
三曲輪堀の虎口。 | |
三曲輪堀。 | |
四曲輪の堀跡と土塁。 |