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戸倉城(とくら) |
別称 : 小宮城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 小宮憲明か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、空堀、水の手 | |
交通 : JR武蔵五日市駅よりバス 「西戸倉」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』に小宮上野介の居城として紹介されている。上野介については、武州南一揆 の主要構成員であった小宮憲明を指すと考えられている。武州南一揆とは、15世紀ごろを中心に、秋川 流域を根拠地とした在郷武士団である。小宮氏は、『日本城郭大系』には上杉氏の庶流とあるが、西党 小川氏の庶流にも小宮氏があり、詳細は不明である。小宮氏は憲明の後、顕宗、綱明と続いた。 天文十五年(1546)、武蔵国守護代大石定久は南からの北条氏の圧力に屈し、北条氏康の子氏照を 養子に迎えて家督を譲った。定久は、居城であった滝山城を出て、この戸倉城へ移ったとされる。この間 に小宮氏は大石氏に駆逐されたのであろうか。 永禄十二年(1569)、甲相同盟が破綻し武田信玄が侵攻してきた際、氏照は塩山から青梅街道を通り 檜原へ抜けるルートを想定していたといわれる。このとき改修を加えられた可能性もあるが、詳細は不明 である。 天正十八年(1590)の小田原の役に際して、檜原城に落城秘話が残っていることから、戸倉城もこの ころまで利用されていたものと推測される。実際の戦闘があったかは不明であるが、小田原城の落城後、 戸倉城も廃城となったと思われる。 <手記> 戸倉城は、秋川と盆堀川に三方を囲まれた半独立の峻嶮な山上に築かれた城です。五日市の市街地 から檜原街道を西へ向かうと、目の前に屹立して見える山がそれです。北東麓の神明神社脇に登山口 があります。戸倉城址は周辺のハイキングコースの一端に組み込まれているらしく、登山道はしっかりと 整備されています。 戸倉城は、大きく東の主郭部と西の出丸からなっています。登山道は主郭の下に出ますが、その途中 には水の手があります。主郭は3、4段ほどに分けられ、虎口は枡形状に折れています。主郭には櫓台 らしき高まりと、その先に崖上に細く伸びた狼煙台のような部分があります。主郭前面の樹木がきちんと 整理されているため、ここからは東方に絶景が望めます。山城は登り切っても樹木だらけで報われない ことが多いなか、実際はハイキング客用なんでしょうが、久々に眺望を楽しむことができました。 主郭の西には、一部土橋・堀切状となった細尾根を越えて出丸があります。こちらは簡単に2段程度に 削平されています。竪堀があるとのことでしたが、明確には分かりませんでした。西方に檜原城を望める とのことですが、ここは樹木に覆われているため残念ながら見えませんでした。 城の東麓、光厳寺と三嶋神社のあいだに土豪屋敷と呼ばれる場所があります。山裾のくぼんだところ にあり、ここに小宮氏や大石定久の居館があったものと推測されます。現在は貯水塔や住宅があるため 確実なことはいえませんが。 戸倉城は史料には乏しいものの、檜原街道を抑える要衝にして要害の地にあり、檜原城と並んで北条 氏時代まで重要視されていたものと推測されます。ただ、急峻な反面曲輪の面積を稼ぎにくい山である ため、規模としてはそれほど大きいものにはできなかったと思われます。 |
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五日市市街より戸倉城山を望む。 | |
主郭のようす。 | |
主郭先端部のようす。 | |
主郭からの眺望。 | |
主郭下の曲輪。 | |
出丸のようす。 | |
主郭部と出丸のあいだの堀切・土橋状部。 | |
主郭部下の水の手。 | |
土豪屋敷周辺のようす。 |