三原城(みはら) | |
別称 : 浮城、玉壺城、三原要害 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 小早川氏 | |
遺構 : 石垣、水濠 | |
交通 : JR山陽新幹線・山陽本線・呉線三原駅下車 | |
<沿革> 『萩藩閥閲録』によれば、天文二十二年(1553)に毛利家から小早川隆景に付けられた八幡原 元直が「三原要害」の在番を命じられている。三原要害は、高山城を居城とする沼田小早川氏に よって水軍の前衛基地として築かれたものと推測されるが、詳しい経緯は不明である。 隆景は永禄十年(1567)ごろから三原城を本格的に整備し、高山城から移った新高山城を居城 としつつも、水軍運用の便などから三原城で指揮を執ることが多くなった。その後も断続的に改修 が行われ、とくに本能寺の変後の天正十年(1582)以降は、山陽道の付け替えや城下町の整備 など居城としての体裁が整えられていった。 天正十五年(1587)、隆景は豊臣秀吉から筑前を与えられ、名島城へ居城を移した。文禄四年 (1595)、養子の秀秋に家督を譲ると三原城を隠居城と定め、改めて大きな改修に着手した。この とき新高山城の石垣の大石は悉く三原へ運ばれたといわれ、翌慶長元年(1596)に普請が完了 すると、隆景は新高山城は廃して三原へ移ったが、翌二年(1597)に城内で病没した。 三原は隆景の甥・毛利輝元の預かりとなったが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利家が 防長2国に減封されると、代わって福島正則が安芸備後を領した。三原城には正則の養子・正之 が入れられたが、慶長十二年(1607)に養父・正則によって幽閉され、三原城は廃城となった。 他方で、元和元年(1615)の一国一城令の後に、廃された鞆城の三層天守が三原城に移された ともいわれる。 元和五年(1619)に福島家が改易となり、代わって浅野長晟が和歌山から42万6千石で入封 すると、筆頭家老・浅野忠長が三原城主となった。以後、一国一城令の例外として、忠長の三原 浅野家が代々城主と務めて明治維新を迎えた。 <手記> 三原城といえば、JR三原駅のコンコースを抜けないと天守台には行けないことで有名ですね。 自分は実際に訪れるまで、新幹線駅の入場料を払わないと入れないのだと思っていたのですが、 そんなことはなく誰でも無料で行けました笑。三方の石垣と水濠の残る天守台には、カップルが 2組ほど愛を育んでいて、こちらもすがしい気分になりました。 また線路の高架下にも本丸や二の丸のものとみられる石垣が断片的に残っています。さらに、 三原国際ホテルの西側には本丸中門跡付近の石垣と濠が、三原駅の南東には舟入や船入櫓の 石垣と濠がありますが、基本的に市街地に呑まれてしまっているので、全体的な構造の把握は 困難です。 まぁ、平地の限られた狭小な河口部に近世城郭を築いたのですから、これだけ残っていることを まずは慶ぶべきなのでしょう。今後とも、これらの石垣や濠を有効に活用していただければと思い ます。 |
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三原城天守台。 | |
同上。 | |
天守台の上のようす。 駅構内を抜けて無料で入れます。 |
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後藤門跡の復元石垣。 | |
線路高架下の石垣。 | |
同上。 | |
本丸中門跡。 | |
中門跡脇の石垣と水濠。 | |
二の丸の石垣。 手前側は当時すでに海でした。 |
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船入櫓跡の石垣。 | |
同上。 | |
岩礁の上に積まれた石垣。 | |
舟入のようす。 | |
同上。 |