トップラー小宮 ( Topplerschlösschen ) |
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別称 : なし | |
分類 : 池上館(Weiherhaus) | |
築城者: ハインリヒ・トップラー | |
交通 : ローテンブルク旧市街から徒歩20分程度。 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1388年、ローテンブルク市長ハインリヒ・トップラーによって建造された。トップラーは ローテンブルクの裕福な商家に生まれ、父の代から市議会議員を務めていたとされる。 1373年に市長に就任すると、トップラーは周辺の斜陽の領主から領地や城を買い漁り、 フランケン地方ではニュルンベルクに次ぐといわれる都市の繁栄を築いた。他方で強引 な手法に訴えることも少なくなく、近隣領主とは諍いが絶えなかったといわれ、市民軍が 動員される事態に発展することもあったという。 トップラー小宮はトップラーの夏の別荘として建築されたといわれるが、タウバー川沿い の集落や農地、水利などを確実に抑えるという目的も有していたとみられている。同時に ローテンブルク市の拡張・整備も進められ、トップラーの時代に現在の旧市街の体裁が 整えられたといわれる。 1407年、トップラーはヴュルツブルク大司教や廃帝ヴェンツェルと手を組み、神聖ローマ 皇帝ルプレヒトと対立したために、ローテンブルクに兵を差し向けられた。しかし、充分に 城塞化されたローテンブルクは陥落することはなく、和議が結ばれることになった。だが、 この事件はトップラーの拡大路線の限界を露呈したもので、市民の支持が揺らぐように なった。トップラー小宮が池上館(Weiherhaus)という、当時の貴族の間で流行っていた 建築様式であったことも、トップラーがもはや市民の側に立っていないという意識を芽生え させる元となっていた。 1408年、ローテンブルクが帝国アハト刑に処されたことは、トップラーの政敵に格好の 口実を与えることになった。同年4月6日、トップラーは会議中に拘束され、市庁舎の地下 牢に監禁された。2ヶ月後、裁判が始められることもなく、トップラーは獄死した。死因に 関する史料はなく、斬首刑に処されたとも飲食物を与えられずに餓死させられたともいわ れる。遺産はドイツ王と市と家族で三分されたが、小宮が誰のものとなったかは詳らかで ない。 1861年にボーアス家の所有となり、現在も個人所有であるが、内部は公開されている。 <手記> ローテンブルクといえばドイツ有数の観光都市として有名ですが、西麓を流れるタウバー 川沿いには、旧市街の喧騒が嘘のようにのどかで牧歌的な風景が広がっています。この 川沿いの散策路を歩いていると、大きなつくしんぼのような異様な塔が現れます。これが トップラー小宮です。 この不思議な建築様式は、上述の「池上館(Weiherhaus)」のほかに「塔城(Turmburg)」 や「武装邸宅(Festes Haus)」、などいくつか呼び方があるようです。トップラーのころに、 おもに南独で流行った建築だそうで、とくに池上館と称する場合は池泉のなかにぽつんと 塔が浮かぶような形になっているのが特徴です。今では手前の橋の下に用水路が流れて いるだけですが、当時はこの用水を堰き止めて周囲を池にしていたそうです。橋もかつては 跳ね橋で、塔には少ないながらも銃眼が開いており、一応の防衛設備は体裁として整えて あったようです。実際に戦闘を行う予定があったとは思えませんが。 もう1つの特徴は、石組みの塔の上に木組みの居住部が張出していることです。思えば、 日本の小倉城天守などにみられるいわゆる「南蛮造り」といわれる張り出しと同じ建築手法 であり、その起源はこうした貴族の居住建築にあるのかもしれません。 現在は個人所有ですが、所有者の方によって有料で公開されています。普通に所有者の 方のお宅の庭先を横切っていくのですが、あたりに人の気配がないときは呼び鈴を押して 開けてもらう必要があります(かなり勇気がいりました(笑))。内部は、古い写真などを展示 した簡易資料館になっています。 下の石造りの部分は基本的に階段を上るだけの塔ですが、上階の居住部にはキッチンや 書斎なども設けられており、実際に居住することを目的とした建物ではあるようです。住んで みたいかといわれると、迷ってしまいますが(笑)。 |
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トップラー小宮外観。 | |
入口と橋。当時は跳ね橋で、草の生い茂る地面は池でした。 | |
入口付近のようす。 | |
小宮近辺からローテンブルク旧市街を見上げる。 | |
おまけ:旧市街にあるトップラーの館と伝わる建物。 内部はホテル兼レストランです。日本語メニュー有。 |