十河城(そごう)
 別称  : 十川城、西尾城
 分類  : 平城
 築城者: 十河吉保か
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : 琴電長尾線池田駅徒歩20分


       <沿革>
           讃岐の有力土豪十河氏の居城である。十河氏は景行天皇の子神櫛王の末裔とされる
          植田氏の一族で、南北朝時代に植田景保の一子吉保が山田郡十河郷に拠ったことに
          はじまるとされる。十河城も吉保によって築かれたものと思われるが、詳細は不明である。
           阿波の三好氏が台頭すると、十河氏はこれと結んで讃岐での勢力拡大を図った。十河
          景滋(存春)の嫡子金光が死没すると、三好長慶の弟一存が養子として十河氏を継いだ。
          一存は「鬼十河」の異名をとるほどの猛将で、兄の中央進出と讃岐の三好氏勢力の拡大
          に大きく貢献した。
           しかし、一存は永禄四年(1561)に30歳の若さで病没した。嫡子義継は兄長慶の養子
          として三好宗家の家督を継ぎ、十河氏は次兄三好実休(之虎、義賢)の子存保が継いだ。
          一存にはほかにも存之という実子がいたが、庶子だったため存保の家老となった。
           天正五年(1577)、実休の跡を継いでいた実兄の三好長治が土佐の長宗我部元親の
          後援を受けた細川真之に攻め滅ぼされると、存保が三好宗家を継いだ。存保は勝瑞城
          に移り、十河城は存之が城代として預かることになった。
           天正十年(1582)六月に三好氏の後ろ盾となっていた織田信長が本能寺の変で横死
          すると、元親は三好氏への総攻撃にとりかかった。同年八月、阿波で中富川の決戦に
          臨むのとほぼ時を同じくして、元親の子親和を養子とした西讃の天霧城主香川氏や、
          藤尾城主香西氏を中心とする約1万の軍勢が十河城に迫った。籠城方は、存之ら約1千
          ほどであった。
           十河城は当時5重もの土塁を擁し、その外側は深田に囲まれていたとされる。攻め手
          は城に取り付くための道を作りにかかったが、城兵は鉄砲を激しく撃ちかてけ粘り強く
          抗戦した。また、前田城主前田宗清が攻城軍を夜襲するなどしたため、次第に長期戦と
          なった。一方の存保は中富川の戦いに敗れ、讃岐虎丸城に撤退した。そのため阿波を
          平定した長宗我部軍本隊も十河城攻めに加わったが、それでも落城は免れた。やがて
          冬を迎えると、元親は土佐に戻った。
           天正十二年(1584)、元親は再び虎丸城と十河城に攻め寄せ、今度は両城とも落城
          した。存保と存之は羽柴秀吉を頼って落ち延びた。
           翌天正十三年(1585)に秀吉が四国を平定すると、存保は讃岐の旧領のうち3万石を
          与えられ、十河城に復帰した。
           翌天正十余年(1586)十二月、秀吉の九州平定戦における戸次川の戦いで、存保・
          存之ら十河一族の多くが討ち死にした。存保の子千松丸は幼少で秀吉へのお目見え
          を済ませていなかったことから、戦後十河領は没収された。讃岐国主生駒氏によって
          千松丸に「鼻紙代」として3000石が宛てがわれたが、十河城は廃城となった。
 

       <手記>
           十河城は吉田川の支流と鷺池に挟まれた緩やかで細い舌状地形に位置しています。
          今では大して要害の地とも見えませんが、当時は三方を深田に囲まれ、城に近づくこと
          も容易ではなかったようです。『南海通期』によれば5重の土塁をもち、大手は南に設け
          られていたとあります。現在は水田開発や宅地化により、当時の縄張りもわからない
          ほどになっています。
           称念寺一帯が本丸跡とされ、東辺にある山門はかつての城門を転用したもとといわれ
          います。境内の墓地には土塁跡のように見える土盛りがあり、寺の東西は急な切岸に
          なっていますが、遺構なのかはわかりません。
           地形などから、本丸の北には土橋と堀切で隔たられた副郭があったとみられています。
          こちらも堀跡のような田や切岸のような斜面が見られますが、やはり城の遺構なのかは
          定かでありません。
           ところで、香川県といえば讃岐うどんですが、街中だけでなく地方の集落にも当たり前
          のようにうどん屋さんがあります。十河城址の東にも、谷を隔てて久保製麺所というお店
          が建っています。ちょうどお昼時に合わせて立ち寄りましたが、周囲にとくに大きな施設
          などもない何の変哲もない場所なのにほぼ満席でした。セルフのうどんはボリュームも
          あり、そのうえとてもお安く、香川のうどん文化を満喫できるところとしておすすめです。

 称念寺山門。門前に城址標柱と説明板があります。
鷺池。 
 称念寺墓地の土塁状地形。
城址周辺からの眺望。 
 本丸北の副郭跡と思われる付近を望む。
本丸東辺の斜面。切岸跡か。 
 同じく西辺。
本丸南側の東西方向の小道。堀跡か。 
 大手口とされる南側に伸びる道。
久保製麺所駐車場から十河城址を望む。 


BACK