稲村城(いなむら)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 高井直将か
 遺構  : なし
 交通  : 関東鉄道常総線寺原駅徒歩15分


       <沿革>
           『日本城郭大系』には、高井直将の居城とある。高井氏は下総相馬氏の庶流とされるが、
          詳しい系譜は定かでない。直将の子治胤は、宗家相馬整胤を殺害し、永禄九年(1566)に
          下剋上により相馬氏の家督を継いだ。『東葛飾郡誌』によれば、直将は整胤と兄弟とある
          が、治胤と整胤の生年が3年差と近いことと、治胤の妻は整胤の姉ないし妹であることから、
          可能性がないわけではないが、信憑性は低いと思われる。
           他方、『常総戦蹟』には「稲村城址は北相馬郡稲戸井村大字稲にあり」とあり、稲村城主
          を高井直徳としている。永禄四年(1561)に小文間城の一色宮内少輔が大鹿城を攻め落と
          した際に、兵を出してこれを奪還したのが直徳とされる。直徳と直将の関係は定かでないが、
          実際のところ高井氏の居城は高井城にあったと考えられるため、直徳が高井宗家の分家と
          して稲村にあったとする推測は成り立ち得る。ただし、『常総戦蹟』は明治時代に刊行され
          た軍記物であり、信憑性にはやはり留保が必要である。


       <手記>
           私立江戸川学園後背の台地上に城郭関連と思しき地名が散見されることから、稲村城
          がこのあたりに存在したのではないかという推測がなされているようですが、遺構などは
          発見されておらず、茨城県の遺跡地図でも城跡とは認識されていないようです。
           上の地図の右端の緑丸地点に小字「城山」があったそうですが、道路建設によってほぼ
          削られているようです。江戸川学園東側に細長く伸びる峰が字「馬場山」で、関連地名の
          なかではもっとも旧状を残していそうな藪の森ですが、この日は私の訪城では珍しく雨が
          降ったため、踏査の困難と時間上の都合から内部には入らず仕舞いでした。
           上の地図の左端の緑丸が字「城ノ台」といい、現在は旧家が建っています。一見すると
          尾根先の城館地形のようにも見えますが、これはやはり幹線道路の貫通によるもので、
          かつてはさらに南の古戸城と峰続きだったようです。残った緑丸は字「城ノ内」で、稲集落
          の中心部でもあります。ここにはお社と古木がありますが、やはり城館に関係するような
          ものは見当たりません。
           総じてみると、要害性という点では峰先にあたる「城山」と「馬場山」が城郭地形といえ、
          「城ノ台」と「城ノ内」は、存在したとしても居館程度のものが想起されます。4つすべてに
          またがるような城郭となると、巨城に過ぎてしまうので、ちょっと考えにくいでしょう。
           直感的には、稲村城と古戸城が同一のものである可能性は、充分にあると思います。
          明確に遺構を残す古戸城と似たような立地の「馬場山」「城山」も、同様に取り立てられて
          いたのかもしれません。城山はもはや検証不能ですが、馬場山の方は、がんばって踏査
          してみれば良かったかなと悔やんでおります。

           
 字「城山」付近現況。
字「馬場山」近望。 
 字「城ノ台」のようす。
字「城ノ内」のようす。 


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