長浜城(ながはま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 本山茂宗か
 遺構  : 曲輪跡
 交通  : 高知市街より桂浜行きバス。「変電所前」もしくは「雪蹊寺」
       バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           天文年間(1532〜55)ごろ、浦戸城まで勢力を伸ばした本山茂宗(梅渓)によって、浦戸湾を
          挟んで対岸の種崎城に進出していた長宗我部氏に対抗するために築かれたとみられている。
          それ以前に城砦が営まれていたかについては不明である。
           永禄三年(1560)、兵糧を積んで種崎城へ向かった長宗我部氏の船が、本山氏側の潮江城
          の兵に襲われたことから、両氏の関係は悪化した。同年五月二十六日、長宗我部国親は種崎
          城から浦戸湾を渡り、長浜城に夜襲をかけた。この奇襲は功を奏し、城主大窪美作守は朝倉城
          へ逃れた。
           長浜城夜襲に関しては、福富右馬允という人物にまつわる逸話がある。右馬允は腕利きの
          大工で長浜城下に住んでいたが、長宗我部氏との関係の緊迫化を受けて、本山氏は右馬允に
          長浜城門の補修を依頼した。国親は「領地を与える」と甘言をもって右馬允を誘い、城門に工作
          を施させた。これによって、夜襲に際して国親勢は難なく城中になだれ込むことができたという
          ものである。ただ、この福富右馬允なる者がいかなる人物であるかは分かっていない。
           長浜城奪取の報に触れた本山茂辰(梅渓の子)は、翌二十七日に2千5百の兵を率いて出陣
          した。国親も1千の兵をもってこれに対峙し、長浜戸の本の戦いが勃発した。国親の嫡男元親の
          初陣でもあったこの戦いで長宗我部軍が勝利し、茂辰は浦戸城へ逃げ込んだ。国親は、陸には
          柵を設け、海上には船を並べて浦戸城を包囲した。たちまち城中の兵糧は窮乏したが、国親は
          囲みを解いて種崎城へ引き上げた。茂辰も兵をまとめて朝倉城へ退却 し、長浜城は破却され、
          廃城となった。


       <手記>
           長浜城は、長宗我部家の菩提寺である雪蹊寺の裏手の山上にあります。現在、すぐ山腹まで
          宅地化されていますが、城域は今も手付かずの状態です。『日本城郭大系』などには、曲輪跡と
          みられる平坦地があるということですが、宅地側からはぐるっとフェンスが張られ、登ろうにも道が
          ない状態です。
           『大系』にも「登頂は困難である」とあるように、完全に山林に埋もれている格好です。仕方ない
          ので、宅地周辺から城山を眺めるだけとしました。
           位置関係としては、東に御畳瀬の港を抑え、浦戸城と朝倉城の連絡を担っていたものと思われ
          ます。

           


長浜城址遠望。


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