豊島刑部少輔陣屋
(としまぎょうぶしょうゆう)
 別称  : なし
 分類  : 陣屋
 築城者: 豊島信満
 遺構  : なし
 交通  : 京浜急行京急富岡駅または金沢シーサイド
      ライン並木北駅徒歩15分


       <沿革>
           江戸時代初期の旗本・豊島刑部少輔信満(明重)の陣屋とされる。信満は府川城主豊島頼重の
          三男で、石神井城主豊島泰経の後裔を称しているが、頼重に至る系譜は明らかでない。頼重は
          北条氏に仕え、信満はその滅亡後の文禄三年(1594)に新たな関東国主である徳川家康に取り
          立てられ、武蔵国久良岐郡富岡に所領を与えられた。陣屋が築かれたものこのときとみられる。
           信満は御目付役に就いて1700石まで加増され、あるとき老中・井上正就の嫡男・正利と、大坂
          町奉行・島田直時の娘の縁談を仲立ちした。しかし、3代将軍・徳川家光の乳母・春日局が家光の
          弟・忠長の附家老である谷村城主鳥居成次の娘との縁組を持ちかけると、正就は圧力に
          屈して直時の娘とは破談とした。仲人としての面目を潰された信満は、寛永五年(1628)八月十日
          に江戸城西の丸廊下で「武士に二言はない」と叫んで正就を斬り殺した。番士の青木義精が背後
          から信満を羽交い絞めにせんとしたが、信満は脇差を腹に突き立てて自害し、その刃は義精の腹
          にまで達して死に至らしめた。これを直時もまた責任を感じて切腹している。なお、この一件は江戸
          城内で何度かあった刃傷事件の最初のものとされる。
           信満の嫡子・吉継も連座して切腹を申し付けられ、絶家となったが、事情を汲んでそれ以外には
          お咎めなしとされた。これにより、陣屋も廃絶となったとみられる。


       <手記>
           京急富岡駅北東の慶珊寺裏手あたりが陣屋跡とされています。慶珊寺は、寛永元年(1624)に
          信満が父母を弔うために建立した寺で、信満父子の墓も同寺にあるそうです。比定地は駐車場や
          樹木葬墓地などとなっていて、旧状を留めていません。かつて寺の前はすぐ海で、陣屋は外からは
          目につきにくい立地にあったことになります。
           東方が埋め立てられる前はかなり風光明媚だったようで、麓の道沿いには松方正義別荘跡の碑
          が建ち、比定地の上手には直木三十五の旧宅があったそうです。

           
 慶珊寺。
陣屋跡比定地付近現況。 
 比定地上手の直木三十五の文学碑。
東麓の道沿いに建つ松方正義別荘跡碑。 


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