中世城郭と近世城郭(中世城郭の定義)


  1、はじめに

     日本のお城、といわれて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。普通の人であれば世界遺産にも登録された白鷺城
    こと姫路城や、アルプスを背に映える黒壁の松本城などが真っ先に頭に浮かぶことと思います。
     しかし、これら立派な天守閣や石垣を持った城郭は、全国に数万と言われる「城」のごく一部に過ぎないのです。
    前述したような有名な城はほとんどが安土桃山あるいは江戸時代、すなわち近世に築かれたものです。しかし、実際     にはそれより前、中世以前の城郭の方が圧倒的に多いのです。


  2、中世城郭と近世城郭の違い―性質上の点から―

     それでは、中世城郭と近世城郭の違いはどこにあるのでしょうか。前節の文脈からすれば、規模が違う、あるいは

    費やされている金額や技術が違う、といえるかもしれません。しかし、それだけでは定義として曖昧ですし、何より

    このような相違の発生要因を探ることに、中世と近世の境目を探るヒントがあると思います。
         2−1 非中央集権体制            日本の歴史教育では、鎌倉武士と「一所懸命」という言葉がセットで教えられます。大抵は「一生懸命」の語源と     いうくらいでしか意識されませんが、実際には中世を通した武士の行動理念を表しています。中世(特に鎌倉期)の     武士は、平時は開墾に励み、戦時には刀を取って前線に赴く、現代でいうなら屯田兵に近いポジションにいました。     そして彼等は、自分が新しく拓いた土地の名を苗字に戴き、氏姓の地として代々守り抜かねばなりませんでした。      彼等の勢力は視界に収められる範囲であることが多く、領地の中心近辺の眺望の良いところに館を築き、戦時用の     城砦をひとつこさえれば領土経営には事足りていました。      やがて守護大名や戦国大名といった一部の勢力が拡大し雄を競うようになっても、基本的な下部構造に大きな変化     はありませんでした。各大名も、「お前の田畑は俺のもの、お前の蔵も俺のもの」という訳にはいかず、多くはその     土地その土地の在地領主や国人、土豪などを自陣営側に取り込んでいく形で勢力を拡大していきました。
 この結果として、各在地領主の城館や大名の

拠点だけではなく、連絡用の城、国境や街道を

見張るための城、各方面に軍勢を展開するため

の城など、多くの細分化された城砦群がネット

ワークとして張り巡らされるようになりました。

武田信玄は「甲斐は城でなく国で持つ」という

言葉を残していますが、国は数か所の城だけで

維持するものではないという点で、このことは

基本的にどの大名にも当てはまることだったと

いえます。

 図1にみるような、複雑な城砦ネットワークと

して成り立つ各大名の勢力圏が隣り合っている

状態が、中世の典型的なモデルであり、非中央

集権的な体制が長らく続いていました。



   2−2 城の象徴化、多目的化
   
     「織田がつき、羽柴がこねし天下餅」は旧来の政治の有り様をを一変させる過程でもありました。多くの戦国大名が

    近隣との争いに腐心するなか、逸早く天下統一への道筋を究めつつあった織田信長は、同時に楽市楽座の徹底、居城へ

    通じる街道の整備、商人自治都市の吸収など中央集権体制への移行を目指しました。

     これらの諸政策は城郭史にも大きな影響を与え、日本城郭史上最も劇的な転換点となるであろう安土城が築かれます。

    安土城は、もちろん技術・規模・従事者数・費用などの面でずば抜けていることも重要ですが、それ以上に城の役割に

    変化をもたらしたところに大きな意味があると思います。安土城に関してはまた別の機会を設けたいのですが、簡単に

    いえば魅せる城」の誕生でした。すなわち権力の中枢としてのイメージを強烈に植えつけることが重要な目的であり、

    同じく中央集権化の目的で行われた徳川時代の参勤交代制度の原点となる役割を果たしていました。近年では、安土城

    の前身となった観音寺城についても「魅せる城」としての機能に着目されていますが、天下人に最も近い大名となった

    信長がこの点を徹底し昇華させたことに、大きな意味があると考えられます。

      また、信長にはじまり家康が「藩」という形で確立した、家臣を新たな所領に「封じる」という概念は、それまで

    の支配形態「一所懸命」に代わって「人工的で流動的」という要素(たとえば水戸の佐竹家が秋田に、掛川の山内家が

    高知に移される、といった)を生み出しました。

      「一所懸命」の時代、すなわち大昔からその土地に根付いている領主であれば、必要最低限の規模の館を建てれば

    事足りるのですが、他所から新しく移ってきて領民と支配者の間に親近性が欠如しているとなると、中央支配的藩政の

    ためのシンボルが必要となります。ここに、城に「象徴」という新たな機能を求める傾向が生まれ、莫大な資金と時間

    を費やしてでも荘厳な天守閣その他の建築物や、石垣をめぐらした巨城が入用になったと考えられます。
 さらに、江戸時代に入ると一国一城令が布かれ、それ

までは各々の城が個別に担っていた役割(防衛、行政、

監視、居住、通商など)を1つの城で賄わなければなら

なくなりました。その結果、多目的かつある程度規模の

大きな城が必要になったと考えられます。
 図2に示したように、近世以降は領内を本城1つで支配 しなければならなかったため、その機能は多目的でシン ボリックなものになっていきました。












  3、中世城郭と近世城郭の違い―時系列上の点から―

     中世城郭と近世城郭の性質上の相違は、中世城郭が土着性の強い支配単位により各領主の目的や用途に応じて築かれ

    た実用的な施設群であるのに対し、近世城郭は人工的で集権的な支配単位による領国経営のシンボルとなることを目的

    とした、示威的で複合的な総合施設である、という点にあると思います。
     では、城郭史において中世と近世の境目を求めることはできでしょうか。
     中世城郭が完全に廃されたのは一国一城令の後ですが、継続性という面から近世城郭の基盤となるものが登場したの     は、信長・秀吉のいわゆる織豊時代です。ただし、それ以前にも近世的な性格をもった城がなかったとはいえませんし     (多聞山城や観音寺城など)、それ以降にも中世的性格の城も築かれてはいました(神指城など)。      城郭史においては、安土城が中世と近世を分けるとりわけ重要なターニングポイントになるだろうと述べましたが、     その移行期には幾分幅があったのだろうと考えています。


  4、おわりに

     以上をもちまして、概略的ではありますが当ページで主として扱っている「中世城郭」の大まかな意味は察していた

    だけたものと思います。当ページをご覧いただければ、我々の身近なところにも中世城郭は数多く散在していることが

    おわかりになるでしょう(とはいってもまだまだ掲載数が少ないのですが)。
     これらはあくまで「中世城郭」ですので、その目的を想像しつつ、城を扱うたいていのページがきらびやかな「近世       城郭」を紹介しているのとは違った見方で楽しんでいただければ、と願っています。

 戻る