中世城郭の保存


  1、はじめに

     およそ城といえるものは、日本全国に1万あるとも2万あるともいわれています。
    姫路城松本城のように立派な建物や石垣を擁し、地域の観光の中心になりうるようなものであれば、風化することなく
    保存されることが期待できますが、多くの城は今や田畑や住宅、山林などに埋もれてしまっています。なかには、所在地     すら分からなくなってしまったものも少なくありません。
     かといって今分かっている城跡を全部が全部を公園にするなり何らかの形で保存しろというのも無理な話です。そんな     ことをすれば町の開発などに大きな支障がでてしまいます。
     経済、開発、そして保存。これらのバランスをとるためにはどのような保存の仕方が望ましいのでしょうか。いくつか     の例をあげつつ、考えてみようと思います。


  2、仙台城の例(経済の観点から)

     ほとんど近世城郭になってしまうのですが、仙台城の例をあげたいとおもいます。
     仙台市では2000年に仙台開府400年を迎え、記念事業のひとつとして仙台城の整備計画が持ち上がりました。最終的には     敷地内の建物を移動させ、大手門や三重櫓などを復元させるという壮大なものでしたが、まず手始めに、長い星霜を経て     形が歪みだした石垣を積みなおす作業からはじめることになりました。
     すると、中から古い石垣が2列重なって発見されました。つまり、仙台城の本丸は伊達政宗の時代から、3回にわたって
    石垣を外へ外へと足していったことが分かりました。さらに、当初市が建てようとしていた本丸の三重櫓は第二期の石垣     の上、すなわち現在の石垣のラインとは違う場所に建てられていたことも明らかになりました。

      
                   仙台城本丸石垣修復工事のようす。
         分かりにくいですが、左斜め下手前から3つの石垣が重なっています。



     ここで、地元の歴史学者と商工会の間で論争が起こりました。学者は歴史的正確性を追及し、古い石垣があった場所に
    櫓を建てろといいだしたのです。しかし、この石垣は現在土の中なので、そこに櫓を建てれば不自然になってしまいます。
    城を訪れた人は、「何でこんなところに櫓が…。」と首をかしげることになるでしょう。
     新生仙台城を観光スポットの目玉にしたい商工会は当然美観を無視したこの提案には猛反対しました。つまり、歴史的
    正確性と地元経済の思惑が真っ向から対立する形になったのです。
     では、歴史的建造物である以上完璧な復元を目指すべきでしょうか?確かにできるだけ正確であるに越したことはあり
    ません。しかし、タイムマシンでもない限りは完璧な復元は不可能です。まして、それが訪れる人にマイナスのイメージ     を与えるのでは元も子もありません。観光客あっての観光名所。どんなに金をつぎ込んで立派なものを作っても、それが     客を喜ばせなければただの無用の長物、何の意味もありません。
     結局、仙台市は商工会長に決断を委ね、一番新しい石垣の上に建てることになりました。ですが、それでも学者先生は     反対を唱え続け、計画は先送りを余儀なくされています。学者のつまらぬ意地と誇りが、町の発展を妨げてしまっている     といえます。


  3、多摩ニュータウンの例(開発の観点から)

     開発計画との調和の例として、多摩ニュータウンの例を挙げたいと思います。
     多摩ニュータウンの中心、多摩センター駅を降りて東に向かうと「埋蔵文化センター」という施設があります。ここに          は、ニュータウン計画域内の古代から近代までのあらゆる遺構や出土品の資料が保存されています。
     多摩ニュータウンでは、開発の前に域内をくまなく発掘調査しました。しかし、現在それらの遺構ほぼすべてが住宅等     に飲み込まれました。そして資料だけが先ほどの専門施設保存という形で残されました。
     しかし私は、開発においてはこれが次善の方法であると思っています。もちろん、残せるものであれば公園などの形で     保存してもらうにこしたことはありません。ただ、あれもこれも残すのではやはり開発計画が行き詰まってしまいます。     ですから、大切なことは調査がなされ、資料がきちんと保存されることにあるのだと思います。
     私は地方の古城址を訪ねる際、地元の図書館や役所、公民館などに立ち寄ります。そこに資料があったり、地元に詳し     い人がいたりすれば、現地には何もなくてもそれで当時を知るには十分なのです。


  4、猿島町と石下町の例(保存の観点から)

     茨城県に、猿島町と石下町という隣り合わせの2つの町があります。現在では合併により、それぞれ坂東市と常総市と

    いう2つの市に組み込まれています。そして、猿島町には逆井城という後北条氏の重要な城跡がありました。猿島町は、

    この逆井城を数次にわたって調査し、さらに当時に近い形で復元させ、城址公園として開放しました。
     一方石下町は、畑のど真ん中に突如として「豊田城」と名づけた白亜七層の天守閣を出現させました。そんな片田舎     にゴージャスな城など元々あろうはずもなく、地方交付税にあかせて作ったもので、中身は民族資料館だそうです。
     逆井城が当初閑散としていたのに対し、「豊田城」は税金の無駄遣いの例として何度か取り上げられ一時注目と人気
    を集めました。
     しかし、実際にそこに城があった上での話である仙台の例とはわけが違い、はなから何もないところにいきなり天守
    を建てるなどというのは、迷惑この上ないと思っています。このような例は全国あちこちにあり、平成の築城ブームに
    かこつけて交付税をはたくためにいわれのない天守が各地の町村部で「新規築城」されています。

      
                      逆井城址公園


  5、おわりに

     以上、中世城郭の保存という問題について幾つか実例をあげてみました。
     真っ先に分かることは、全国に数多く散らばる城跡の保存と、地域開発はなかなか結びつかないものであるというこ     とです。もちろん、行政レヴェルできちんとした保存作業を行い、中世城郭ファンと一般観光客そして地元の三者とも     が喜ぶ成果をあげた例もたくさんあります。
     だからといってふた言目には復元保存と唱えればよいかといえば、それは余りにも安易です。
     要は、危ぶむべきは資料や伝承といった形での「保存」すらもなされず、名実ともに風化してしまう状況ではないで
    しょうか。それが現実の公益性と結びつくのであれば、何らかの有形的な保存がなされれば良いわけで、城郭研究に携     わる者は、私のようにあくまで趣味としているものでも、日の当たらなくなってしまった古城址の風化を食い止め、あ     るいは再び掘り起こす作業を信条とすべきではないかと思っています。
     またも長々と拙い議論にお付き合いいただきありがとうございます。

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