上ノ平城(うえのたいら)
 別称  : 丸山城、神ノ平城
 分類  : 平山城
 築城者: 源為公か
 遺構  : 堀、曲輪
 交通  : JR飯田線沢駅徒歩25分


       <沿革>
           源満快の曽孫にあたる為公は、11世紀中ごろに信濃守に補任され、上ノ平城を築いて
          居城としたと伝わる。為公の跡は中津乗為衡が継いだ。
           鎌倉時代のはじめごろ、知久沢を本貫とした知久信貞の居城となったとされる。知久氏
          は信貞を祖とする点では異同はないが、出自については3説ある。1つは、諏訪敦光の子
          敦俊が知久沢に移り住み、信貞を養子としたとするもの、2つ目は為衡の4代直系子孫と
          するもの。そして3つ目は、信貞は他田信隆の子で、中津(乗)頼継の猶子となったとする
          ものである。
           承久三年(1221)の承久の乱の功績により、信貞は下伊那の伴野荘に所領を与えられ、
          知久平城を築いて移ったとされる。従来は、これによって上ノ平城は廃城となったといわ
          れていた。しかし、近年の発掘調査により、少なくとも戦国時代には城として機能していた
          ことが判明している。


       <手記>
           沢川と知久沢に挟まれた、典型的な舌状台地を利用した城です。主郭南辺の道沿いに
          説明板と駐車スペースがありますが、そこに至る3本の道路はどれも細く、どうか対向車に
          出会いませんようにと祈りながら登りました笑。
           峰筋に5本の堀切を穿った城で、城内の大部分は畑地となっており、先端の一の堀以外
          の堀については、そこまではっきりとは残っていない様子です。発掘調査では礎石建物跡
          や焼け土、大量の炭化物などが出土したということから、定住していた城主があり、何らか
          の理由で焼失したことがうかがえます。
           陣城や一時的な拠点という使われ方でないとするなら、まず想起されるのが南の福与城
          の藤沢氏でしょう。上ノ平城の西方対岸にある大出城には、藤沢氏庶流の大出氏がいた
          とされることから、こちらにも有力な分家が成立していたとしても不思議ではないでしょう。
          藤沢頼親が武田氏に攻められ降伏した際、福与城に火が放たれていることから、上ノ平城
          に焼亡の跡が見られるというのも、蓋然性があると考えられます。

           
 主郭南側の城址標柱と説明板。
先端の一の堀。 
 二の郭跡現況。
二の堀。 
 主郭現況。
三の堀。 
 三の郭現況。
城址付近(一本桜)からの眺望。 


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