植田城(うえだ)
 別称  : 小鼓城
 分類  : 平城
 築城者: 植田与九郎か
 遺構  : なし
 交通  : JR奥羽本線十文字駅からバスに乗り、
      「旧植田支所前バス停留所」下車


       <沿革>
           城主として植田与九郎や大石与九郎定景の名が伝えられ、両者は同一人物と
          推測される。詳しい築城の経緯などは定かでない。
           文禄四年(1595)、最上義光が雄勝郡へ侵攻して湯沢城を攻め落とすと、次に
          植田城をはじめ新田目城、今泉城、角間城、鍋倉城が攻撃された。5城とも落城
          したともいわれるが、詳細は不明である。
           慶長二年(1597)、小野寺義道は兵を興して植田城を拠点とし、湯沢城奪還を
          図った。文禄四年時に5城を失っていたとすれば、義道はこのときにこれらの城を
          回復したことになる。しかし、小野寺勢は大島原の戦いで撃退され、逆に最上勢
          によって植田城を含む諸城を失った。
           翌三年(1598)、義道の弟で最上氏に降っていた西馬音内茂道が帰参し、奇襲
          によって植田城ら諸城を奪回した。植田氏が城主に返り咲いたと推測されるが、
          確証はない。
           慶長六年(1601)、小野寺氏は関ヶ原の戦いで西軍に属したために改易された。
          植田城も、このときに廃城となったと推測される。


       <手記>
           上に図示した地点の水田中に、小鼓城の石碑と何かの塚があります。秋田県の
          遺跡地図でも、この周囲を城跡としているのですが、当時は湿地帯だったと思わ
          れるような低地で、にわかには信じられません。
           おそらく、浮島のように散在する集落を囲繞して作られた城砦だったものと推測
          されます。とはいえ、集落内を歩いても、遺構らしきものは見当たりません。

           
 小鼓城の石碑と何かしらの塚。
植田集落のようす。 


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