鍋倉城(なべくら)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 鍋倉道周か
 遺構  : 堀跡か
 交通  : JR奥羽本線醍醐駅からバスに乗り、
      「寺村」下車徒歩5分


       <沿革>
           15世紀中ごろの沼館城主小野寺泰道の三男石見守道周が鍋倉氏を称している
          ことから、道周によって築かれたと推測されるが、確証はない。
           天正十八年(1590)、豊臣秀吉のいわゆる太閤検地に反発した地士らが、結集
          して仙北一揆を起こした。このとき、増田城に籠った2千人の将として、鍋倉四郎の
          名がみられる。一揆はまもなく上杉景勝らによって鎮圧されたが、鍋倉氏および
          鍋倉城の処遇については定かでない。
           文禄四年(1595)、最上義光が雄勝郡へ侵攻して湯沢城を攻め落とすと、続いて
          鍋倉城のほか新田目城、今泉城、植田城、角間城が攻撃された。5城とも落ちた
          ともいわれるが、詳細は不明である。
           慶長二年(1597)、小野寺義道は兵を興して植田城を拠点とし、湯沢城の奪還を
          図った。文禄四年時に5城を失っていたとすれば、義道はこのときにこれらの城を
          回復したことになる。しかし、小野寺勢は大島原の戦いで押し返され、逆に最上勢
          によって鍋倉城を含む諸城を失った。
           翌三年(1598)、義道の弟で最上氏に降っていた西馬音内茂道が帰参し、奇襲
          によって鍋倉城ら諸城を奪回した。この間の鍋倉城主については不明である。
           慶長六年(1601)、小野寺氏は関ヶ原の戦いで西軍に属したために改易された。
          鍋倉城も、このときに廃城となったと推測される。


       <手記>
           先人のサイトによると、上に図示したあたりの掲示板脇に城址標柱があったそう
          なのですが、私が訪れたときにはなくなっていました。秋田県の遺跡地図によると、
          この地点の周辺が城域となっています。
           ただ、ここは集落の北端にあたり、字を「城戸」といいます。城域に含まれていた
          としても、字名のとおり北の城門が置かれていたものとみられ、城の中心部はこれ
          より南側の集落内であったと思われます。地図を見ると、城の外堀のような水路が
          みられますが、遺構かどうかはわかりません。

           
 城址標柱があったとされるところ。
そこから集落内方面を望む。 


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