海ノ口城(うみのくち)
 別称  : 鳥井城
 分類  : 山城
 築城者: 平賀氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR小海線海ノ口駅徒歩30分


       <沿革>
          武田晴信(信玄)初陣の地として知られているが、城の歴史についてはほとんど明らかで
         ない。この初陣の伝承は『甲陽軍鑑』にしか記述がみられないが、それによれば晴信の父
         信虎が、天文五年(1536)に平賀源心の拠る海ノ口城を8千の兵で攻めたとされる。
          源心は佐久平の平賀城主とされるが、この名もまた『軍鑑』にしか登場せず、実在を疑う
         向きも強い。しかし、近年では法名を「玄信」とする平賀成頼なる人物がおり、これを源心と
         同一とする説がある。玄信は岩村田大井氏の一族で、長窪城主の大井貞隆や内山城主
         大井貞清と兄弟ともいわれる。
          一方『軍鑑』によれば、源心は2千の兵で海ノ口城に籠城し、ひと月余の間持ち堪えた。
         攻めあぐねた信虎は積雪の懸念から撤兵を命じたが、殿を務めた晴信は300の兵で城を
         急襲した。油断していた城兵は散々に打ち破られて落城し、源心は討ち死にしたとされる。
          海ノ口城が史料に登場するのはこの信玄初陣のくだりのみで、その後の歴史について
         は不明である。


       <手記>
          繰り返すとおり信玄初陣の城として知られている海ノ口城ですが、歴史上は不明な点の
         多い城です。より高所の頂部が城山と名付けられていますが、ここは城域ではないので
         要注意。城はその西側の稜線上にあり、西端下に鳥井峠を扼しています。海尻城と並び
         小海の南北往来の要所だったことは容易に想像でき、武田氏と平賀氏(大井氏)の係争
         の地となったとしても、不思議ではありません。
          南麓の大芝集落の道を走っていると、左手に小さく案内表示が出ているので、これを
         見つければ後は迷うことはないでしょう。角を曲がって車道は少し続いていて、グーグル
         マップなどではその先に駐車場があるように書かれています。実際に駐車スペースは
         標識付きであるのですが、先達の諸サイトにもあるとおりそこまでの道はかなりワイルド
         でおすすめできません。草道・砂利道で瀬越しなどもあり、小型のオフロード車であれば
         行けるでしょうが、さほど高低差を稼げるわけでもないので、集落の道路の開けたところ
         に邪魔にならないように止めさせていただくのが無難です。
          件の駐車場を抜けると、ほぼ直登の峠道となります。途中で直登とヘアピンの分岐点が
         ありますが、いわゆる男坂と女坂のようなものでどちらを通っても鳥井峠に行き着きます。
         ヘアピンの方が旧道のように見えますが…判断は難しそうです。
          峠から右手に尾根筋を上がると、2条の堀切の先に主城域があります。主城域は山頂
         の主郭の下に帯曲輪が巡り、西・東・南の三方に腰曲輪が付属する比較的単純な構造
         をしています。南で帯曲輪が2段になっているあたり、南方への備えがやや堅く、志賀氏
         (大井氏)の築城であることが縄張りからもうかがえます。
          主郭東の腰曲輪に展望台が建てられていますが、主郭に大きな物見岩があるため、
         実際にそのような建物が必要だったとは思えません。それ以上に目を見張るのは、東の
         腰曲輪下の堀切でしょう。遺構のなかで最大の造作といえ、見ごたえがあります。その
         東方の尾根筋には、さらに2条の浅い堀切跡が認められますが、どれほどの防御効果が
         あったかは疑問です。さらにピークをひとつこえた向こうに城山がありますが、とても城域
         が続いているようには見えませんでした。
          海ノ口城については、古くから方々で言われているように、『軍鑑』にある2千もの兵を
         収容できるだけのキャパはとてもありません。他方の信虎の方も、この城を攻めるのに
         8千の兵を動かしたというのも、現実的ではないように思います。1万近い大軍を率いて
         も、狭隘な小海では展開が難しく、海ノ口城を攻めるにしても大半の兵はほぼ待機状態
         になるものと推測されます。信玄初陣が事実としても、兵力は双方半分から4分の1程度
         だったのではないでしょうか。
          また、『日本城郭大系』によれば、付近から鉄鏃・刀・鉄砲の筒などが出土していること
         から、この城で合戦があったことは間違いないとしています。とはいえ、このうち鉄砲に
         ついては、信玄初陣の時点ではまだ日本に伝来していません。したがって、この遺物は
         信玄初陣というよりは、武田氏が制圧したのちも海ノ口城が存続していたことの証拠と
         いえるように思います。海ノ口城が再び必要となるのうな軍事的緊張というと、おそらく
         天正十年(1582)の織田氏による武田攻めおよび同年の本能寺の変に伴う天正壬午の
         乱ではないでしょうか。個人的には、後北条氏が拠点とした若神子城へのルート確保の
         ために取り立てられたのが、海ノ口城の最後の晴れ舞台だったのではないかと考えて
         います。

          
 南西から海ノ口城を望む(画面中央)。
 
峠への登山路の分岐点。 
 鳥井峠。
峠から東上して最初の堀切跡。 
 2条目の堀切跡。
西端の腰曲輪。 
 主郭下の帯曲輪と主郭土塁。
帯曲輪。 
 帯曲輪が2段になっているところ。
主郭西端のようす。 
 主郭の巨岩および石碑と説明板。
東の腰曲輪の展望台。 
眺望はあまりききません。 
 主城域東側の堀切。
同堀切の堀底。 
 東側尾根1条目の堀切。
同2条目。 


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