和田城(わだ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 大井氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : しなの鉄道他上田駅よりバス
       「上和田」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
          築城の経緯については定かでない。『日本城郭大系』には「村上氏代々の持城」とあるが、
         同氏が周辺に勢力を拡大したのは、村上政清が大井城に大井宗家を滅ぼした文明十六年
         (1484)以降のことと推測される。それ以前から城が存在した可能性も考えられるが、その
         場合の築城主は大井氏とするのが妥当と思われる。
          天文九年(1540)、諏訪頼重が和田城北東の長窪城を攻め落とし、同十一年(1542)に
         頼重が武田晴信に滅ぼされると、大井貞隆が長窪城を奪還した。翌十二年(1543)に晴信
         が長窪城を落としたが、同十七年(1548)の上田原の戦いで村上義清らに敗れると、一時
         佐久・小県両郡での影響力を弱めた。和田城がすでに築かれていたとすれば、長窪城と
         ほぼ同様の歴史を辿っていたものと推測される。
          同十九年(1550)に松本平の小笠原長時を追い落とすと、晴信は義清方の砥石城攻略を
         目指した。『高白斎記』によれば、このとき晴信は深志城から長窪へと軍を進め、この間に
         「和田自落」とある。この「和田」が長窪と松本の間に位置する当城を指すとすれば、和田城
         は遅くともこのときには存在しており、武田氏と敵対していたことになる。同年九月、晴信は
         砥石城攻めで世にいう「砥石崩れ」と呼ばれる大敗北を喫したが、長窪や和田を喪失するに
         至ったかは定かでない。
          天文二十二年(1553)、再び東信へ侵攻した晴信は大門街道を北上し、現在の中山道と
         の合流点付近である矢ヶ崎で和田城主大井信定と合戦に及んだ。この戦いで、信定以下
         一族郎党がことごとく討ち死にし、和田城も攻め落とされたとされる。信定は、大井氏宗家
         である岩村田大井氏の分流武石大井氏の出とされるが、詳しい系譜は明らかでない。これ
         が、和田城についてのほぼ唯一の伝承である。


       <手記>
          和田城は、依田川と追川に挟まれた細長い丘陵に築かれた城で、東側眼下には中山道
         和田宿があります。城跡へは、北麓の県道178号線沿いから登城路が整備されています。
         主郭までは、わりとすぐにたどり着きます。主郭には熊野神社が祀られ、その背後に土塁が
         残っています。主郭の下には2段の曲輪が連なっており、北端と思われる曲輪には神社の
         拝殿ないし舞台があります。
          主郭背後は2条の堀切が穿たれ、その奥には3段の削平地が、さらにその奥に3条の堀切
         が続いています。ここまででも十分見応えのある城なのですが、和田城はここから先が長い
         です。上の地図の上の緑丸が、上述の主郭にあたりますが、下の緑丸にまで城域は続いて
         います。
          続いているとはいっても、基本的には細い稜線が延々と伸び、途中途中に堀が出現します。
         この堀の多くは東側斜面にのみ伸びる竪堀で、堀切になっているものもありますが、西側に
         及んでいるものは1つもありません。たしかに、西側斜面は東側斜面に比べて格段に険しく、
         こちらから攻められることを考える必要はないように思われます。とはいえ、かなり思い切った
         限定的戦略構想といえ、興味深いです。
          中山道随一の難所、比高差800mアップダウンの和田峠越えを終えたばかりのガクガクの
         足を引きながらなんとか詰曲輪(仮称)にたどり着くと、一本の太くもない木の幹に貼りつけ
         られた、マジック手書きの「本丸」の粘着テープがお出迎えしてくれました。もちろん、書いて
         あるだけでもありがたいのですが、剥がれ落ちそうになっていたのでそろそろ新しいテープに
         貼り替える必要がありそうでした^^;
          詰曲輪は、東側に明確な帯曲輪を伴っていて、前後は堀切で断絶されています。詰曲輪
         背後の堀切は1条のようで、その奥も少し頑張って歩いてみましたが、そこで城域は終わって
         いるようでした。
          和田城は、このように多くの遺構を残していながら、一次史料にはみられない城です。若宮
         八幡神社には江戸時代に建てられた先の大井信定らの墓碑があり、また和田城北東の八幡
         神社は、城の鬼門除けとして大井氏によって築かれたとする伝承があります。おそらく、村上
         氏の勢力下にあっても、城主はずっと大井氏だったのではないでしょうか。
          和田城の縄張りをみると、熊野神社のある主郭周辺から南端の詰曲輪周辺まで、最低でも
         1回は大規模な拡張が成されているものと考えられます。和田城が改修を受けた時期として
         もっとも妥当と思われるのは、当城が対武田の最前線となった天文十七年から、落城した同
         二十二年の間ということになるでしょう。東信入りに大門街道を使用した武田氏が、村上氏を
         逐った後も和田城を重要視する必然性はないように思われるので、落城後はそのまま廃城と
         なったものと思われます。熊野神社東麓にある信定寺は、信定の菩提を弔うために建立され
         たとされていますが、城主の居館址と思われるこの寺が落城の翌年(天文二十三年)の創建
         とされることも、同二十二年廃城の傍証といえるでしょう。
          したがって、この推測が正しいとすれば、和田城は武田氏による改修を受けていない、村上
         氏(および大井氏)の築城術をそのままに伝える、貴重な城跡ということになります。
          
 鬼門除けと伝わる八幡神社周辺から和田城を望む。
 右手のピークが熊野神社の主郭付近。
 中央左手のピークが詰曲輪付近。
最北端(と思われる)堀切跡。 
 最北端(と思われる)曲輪。
 建物は熊野神社の拝殿ないし舞台です。
熊野神社の主郭。 
奥の本殿裏に土塁が見えます。 
 主郭背後の2条堀切。
2条堀切の奥の三段削平地。 
 三段削平地奥の3条堀切。
その奥の竪堀(一部堀切)群。 
 同上。
同上。 
 同上。
途中の小ピークの削平地。 
 再び竪堀。
同上。 
 そして再び削平地。
再々度の竪堀。
 詰曲輪下の堀切。
 奥にもう1条見えます。
奥側の堀切。 
 詰曲輪のようす。
 右手のまっすぐな木の幹に、「本丸」のテープがうっすら…。
詰曲輪東裾の帯曲輪。 
 詰曲輪背後の堀切。
おまけ:和田宿のようす。 


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