鷲ノ巣館(わしのす)
 別称  : 稲井古城
 分類  : 山城
 築城者: 平小三郎か
 遺構  : 曲輪、土塁、石塁、堀、虎口
 交通  : JR石巻線陸前稲井駅徒歩25分


       <沿革>
           『稲井町誌』によると、平小三郎なる人物が居住していたとされるが、詳細は不明である。


       <手記>
           真野川沿いににょっきりと伸びる峰の先端部に築かれた城です。稜線を遡ると、500mほど
          離れて高木古館があります。本丸の西半分が墓地となっていて、東日本大震災の犠牲者を
          埋葬するために拡張・整備されたのか、駐車場も整っています。麓の道から、「石巻市営稲井
          テニスコート」の案内を頼りに上まで登って行けば、訪城は容易です。
           墓地の奥から林へ分け入ると、本丸の土塁や石塁の痕跡などが見られます。見応えがある
          のはここからで、本丸の背後には規模の大きな空堀や切岸を挟んで、二の丸・三の丸と続き
          ます。さらに、堀また堀、曲輪また曲輪の先、三の丸の南東斜面にはこれまた長大で用途の
          不明な縦土塁が麓へ向かって一直線に延びているではありませんか! その先も尾根筋に
          堀切や土塁が断続的に見られ、上図緑丸の北東端付近に虎口状地形が見られるのが城域
          最後端と推察されます。
           テニスコートのある南西中腹には、かつて稲井小学校があったそうです。もし、その平場が
          もとからあった地形であれば、居館跡である可能性は高いでしょう。
           このように、鷲ノ巣館は一介の土豪程度ではとても構築も維持もできないような規模を誇る
          一大城郭です。その造作や技巧性は、周辺の諸城館と比べても際立っています。さてこの城
          をどう解釈すべきかですが、はじめは葛西大崎一揆に伴う陣城か何かかと考えていました。
          その後、付近の城館を調べるなかで気になったのが真野川の上流にある小屋館です。
           小屋館は葛西氏が奥州に下向した際に、家老の都沢豊前守が築いたと伝えられています。
          しかし、葛西氏古参の家臣に都沢氏の名はみられません。一方、伊達稙宗の子・牛猿丸が
          葛西氏の養子に入ったとき(葛西晴清)、これに随行した伊達家臣の1人に都沢美作の名が
          あります。このことから、小屋館は晴清が石巻葛西家に入嗣した際に築かれた伊達方の城館
          ではないかと考えています。
           もしそうであるとすると、石巻葛西家の居城は日和山城とされていますが、実家の勢力圏に
          なった真野川流域に新たな居城ないし詰城を築いたという可能性は、充分にあり得るのでは
          ないかと思われるのです。葛西氏の城館は基本的に段築状の曲輪を並べるだけで堀をあまり
          用いない傾向があり、伊達氏の指導の下で整備されたとすれば、鷲ノ巣館の図抜けた技巧性
          や、高木古館に連続堀切が見られる理由を説明できるでしょう。
           城主として伝わる「平小三郎」ですが、やはり平という名字は付近にはみられません。ただ、
          そもそも葛西氏自体が秩父平氏流の名族なので、平姓を指すのだとすれば合点がいきます。
          晴清の名乗りが小三郎なのか、他の葛西氏一門なのかは分かりませんが、葛西氏の直轄の
          城だとする点ではやはり傍証となるのではないでしょうか。

           
 南から鷲ノ巣館跡を望む。
本丸西半は墓地になっています。 
 本丸東半のようす。
本丸の土塁。 
石塁の痕跡も見られます。 
 本丸背後の空堀。
二の丸のようす。 
 二の丸の土塁。
二の丸の空堀。 
 三の丸から二の丸の切岸を見上げる。
三の丸の土塁。 
 三の丸南東隅のようす。
三の丸外の長大な縦土塁。 
 三の丸の切岸。
稜線の堀切。 
 稜線の土塁。
稜線上にあった堀底道。 
城との関連は不明です。 
 稜線鞍部の虎口状地形。
 城域最後端か。


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