横手城(よこて) | |
別称 : 朝倉城、韮城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 小野寺輝道か | |
遺構 : 曲輪、土塁 | |
交通 : JR奥羽本線・北上線横手駅からバスに 乗り、「横手病院前」下車徒歩10分 |
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<沿革> 天文十五年(1546)、沼館城主小野寺稙道は、横手平城主大和田(横手)光盛や 金沢八幡別当金乗坊らに反逆され、湯沢城で自害した(平城の乱)。稙道の遺児 輝道は、逃れて庄内の大宝寺氏に匿われた。3年後、八柏城主八柏道為ら旧臣の 支援を受け、光盛・金乗坊らを攻め滅ぼし、横手城に居城を移した。横手城はこの とき築かれたとも、すでに前身となる城砦があったともいわれるが、いずれも確証は ない。 輝道の代に、小野寺氏は戦国大名として成長した。その勢力は、知勇兼備の将と いわれた道為の存在に拠るところが大であった。南羽の最上義光は雄勝郡進出を 窺っていたが、その最大の障害は道為であると考えた。そこで、最上氏に内通した という偽りの書状を吉田城主吉田陳道のもとへ届けさせた。輝道の跡を継いでいた 子の義道は、実弟である陳道から報らせを受けると疑心暗鬼に駆られ、文禄四年 (1595)に道為を呼び出し、横手城大手口の中の橋で斬殺した。 道為を失った小野寺氏は最上氏の攻勢の前に領土を蚕食され、慶長五年(1600) の関ヶ原の戦いで西軍に属したことにより、翌六年(1601)に改易された。横手城を 含む小野寺旧領は義光に与えられたが、翌七年(1602)に佐竹義宣が羽後に入国 すると、最上家の平鹿・雄勝両郡と佐竹家の由利郡の所領交換が行われた。 横手城には、伊達盛重ついで須田盛秀が城代として入った。盛秀死後はいったん 扱いが不詳となるが、横手城は一国一城令の例外として、大館城とともに存続した。 寛文十二年(1672)に佐竹氏庶流の戸村義連が入城し、以後戸村家が城代を代々 務めた。 戊辰戦争に際し、久保田藩は新政府軍についたため奥羽列藩同盟に攻撃された。 慶応四年(1468)八月十一日、庄内藩軍が横手城を攻撃し、城代戸村義得は応戦 するも衆寡敵せず落城した(横手の戦い)。義得は逃れたものの、城は炎上し、その まま廃城となった。 <手記> 横手城は、横手川と横手市街を見下ろす舌状の峰上にあり、横手公園として整備 されています。東麓に牛沼という堰き止め湖があるとおり要害性にも優れ、別名の 韮城は、土砂崩れ防止と敵兵が登りにくいようにとの目的から、斜面にニラを植えた ことにちなんでいます。二の丸には模擬天守が建っていて、かまくら祭りや桜祭りの 会場としても有名です。 本丸は秋田神社境内となっていて、社殿には焼け残った城の木材が転用されて いるそうなのですが、私が訪れたときはなぜか境内立ち入り禁止となっていました。 その下には2段の帯曲輪が残り、こちらははっきり見て取れます。 また、本丸と二の丸の間の武者溜りには、「犬走」と標柱にある遺構がみられます。 犬走りとはいうものの、残っているのは土塁です。本丸と武者溜りの間には大手門 があったとされ、おそらく登城路を兼ねた堀切となっていて、土塁もそれに伴うものと 思われます。 公園化されているものの、全体像は分かりやすく残っています。最終的には佐竹家 に改修されていると思いますが、縄張りは戦国時代からあまり変わっていないように 感じられ、戦国大名小野寺氏の居城としての威容を今に伝えています。 |
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平城跡付近から横手城跡を望む。 | |
二の丸の模擬天守。 | |
同上。 | |
模擬天守から市街方面を望む。 | |
模擬天守から本丸を望む。 | |
二の丸の切岸。 | |
武者溜りのようす。 | |
大手門跡。 | |
大手道の石段。 堀切も兼ねていたか。 |
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「犬走」跡。 犬走というよりは明らかに土塁です。 |
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本丸の切岸。 | |
本丸帯曲輪から本丸を望む。 | |
本丸2段下の帯曲輪。 |