米子城(よなご) | |
別称 : 湊山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 吉川広家 | |
遺構 : 石垣、井戸跡 | |
交通 : JR山陰本線米子駅よりバス 「加茂町」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 米子城址の湊山の東にある飯山には、応仁の乱以来の飯山砦があったとされているが、湊山 に城が築かれたのは織豊時代に入ってからのこととされる。天正十九年(1591)、豊臣秀吉の 命により月山富田城12万石に封じられた吉川広家は、中海に面した湊山に新城の築城を計画 した。完成後は居城を移転させる予定であったといわれるが、朝鮮の役への従軍のため、完成 には至らなかった。 後に小天守として扱われる本丸四重櫓は、広家によって建設された天守で あると考えられている(『伯耆民談記』には、倉吉城ないし小鷹城(尾高城)から移築したと書か れているが、今日では俗説とみられている)。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後、中村一忠が駿府城14万石から伯耆一国17万5千石 へ加増転封となった。当時一忠は11歳の少年であったが、家老横田内膳村詮や叔父中村一栄 の後見を受けて米子城と城下町の整備を進めた。 慶長八年(1603)、一忠は側近に唆されて村詮を殺害した。これに対し、村詮の子主馬之助や 柳生宗厳(石舟斎)の四男で村詮に客将として招かれていた宗章らが、飯山砦跡(米子城内の 内膳丸とも)に立て籠もった。主馬之助らに共感する家臣も多く、一忠ひとりでは鎮圧できない ほどに騒ぎは拡大した。一忠は隣国の松江藩堀尾家に加勢を依頼し、ようやく乱を収めることが できた。この戦いで、宗章は18人を斬ったものの(数には異説有り)、力尽きて討ち取られたと される。剣豪と呼ばれた人物が実際に戦で刀を取った、貴重な記録といえる。 乱後、側近が処断されたのみで一忠はお咎めなしとされたが、慶長十四年(1609)に急死した。 中村家は無嗣断絶となり、翌十五年(1610)には加藤貞泰が伯耆国内で6万石を与えられ、米子 城主となった。 元和三年(1617)、貞泰は大洲へ移封となり、米子は池田光政の鳥取藩領となった。米子城に は家老池田由成が3万2千石で城代として入った。寛永九年(1632)、光政は岡山へ転封となり、 代わって光政の従兄弟池田光仲が、岡山から鳥取へと移された。米子城には、家老荒尾成利が 1万5千石で入った。成利は、光仲や光政の祖父輝政の従弟にあたり、米子では「自分手政治」 と呼ばれる独立した施政権を与えられていた。 米子城荒尾氏は、10代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 米子城址のある湊山は、西は中海に臨み、南に加茂川が流れ、かつては三方を海に囲まれた 城であったものと容易に想像できます。現在建物は残っておらず、山城部と山麓の二の丸桝形の 石垣を残すのみです。桝形を上がった二の丸御殿跡には、移築された城下武家屋敷の長屋門と、 井戸跡が残っています。 山城といっても大した高さはなく、御殿跡裏から石段を上ると、まもなく本丸と内膳丸の峰の間 の鞍部にでます。ここには門跡の石垣がありますが、桝形や堀切などの造作は認められません。 内膳丸は、石垣で固められた方形の曲輪が2段続いている空間で、鞍部側からの防御力は、 高いとはいえません。占拠のしやすさという点では、横田主馬や柳生宗章らがこの内膳丸に立て 籠もったとしても、ありえない話ではないように思います。 先ほどの鞍部から本丸側へ登ると、こちらもまもなく小さな虎口門跡に出ます。ここは、天守台 の直下にあたります。ここから天守台石垣の下を迂回して、本丸門に至ります。天守台周辺の 樹木は整理されており、この日は台風が近づきつつあったのですが、伯耆富士こと大山の頂きを 遠くに望むことができました。もっと晴れていれば、さぞや絶景であろうかと思います。 |
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二の丸桝形石垣。 | |
桝形内部の二の丸表門跡。 奥に見える長屋門は、旧小原家の門を移築したもの。 |
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二の丸御殿の井戸跡。 | |
本丸と内膳丸の間の鞍部の門跡石垣。 | |
内膳丸下段の石垣を望む。 | |
内膳丸上段の石垣。 | |
内膳丸上段のようす。 | |
内膳丸から本丸方面を望む。 | |
本丸天守台下虎口石垣。 | |
天守台石垣(右)と四重櫓石垣(左)。 | |
本丸下の曲輪の水の手門跡。 | |
本丸門跡。 | |
天守台。奥に大山が見えます。 | |
四重櫓跡。 | |
天守台から大山を望む。 |