国分山城(こくぶやま) | |
別称 : 国分城、国府城、唐子山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 不詳 | |
遺構 : 削平地、堀 | |
交通 : JR予讃線今治駅よりバス 「唐子池」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 築城の経緯は定かでないが、山麓に伊予国府や伊予国分寺が営まれていたことから、 かなり早い段階で何らかの施設が置かれていたものと推測される。康永元/興国三年 (1342)、新田義貞の弟脇屋義助が四国へ渡り、伊予の南朝勢力を指揮した。しかし、 同年中に病に倒れ、伊予国府で没した。このときまでには、唐子山に城砦が設けられて いたものと考えられている。 天正十年(1582)、毛利氏に従属していた河野氏の家臣村上(来島)通総が織田氏と 通じて離反した。通総は毛利方にとどまった同族の能島村上武吉に攻められ、来島城 を逐われて播磨の羽柴秀吉を頼った。このとき、来島城とともに国分山城も武吉の所有 となったとされる。 天正十三年(1585)の秀義による四国攻めに際し、武吉は秀吉に従属していた毛利氏 の麾下にあったにもかかわらず、反抗的な態度をとり参戦しなかった。そのため、毛利家 重臣小早川隆景に攻められ、国分山城も開城したとされる。戦後、伊予一国は隆景に 与えられたが、国分山城の処遇については不明である。 天正十五年(1587)、隆景は筑前へ移封となり、福島正則が伊予国内に11万3千石余 を得た。正則ははじめ河野氏の居城湯築城に入ったが、まもなく国分山城に移転した。 文禄四年(1595)に正則が尾張清州城24万石へ加増・転封となると、池田秀雄が2万石 で国分山城主となった。 慶長三年(1598)に秀雄が朝鮮で没すると、その遺領は隣領の小川祐忠に与えられた。 祐忠も国分山城を居城としたとされるが、それ以前の居城については不明である。また、 所領についても合わせて7万石とも12万石ともいわれはっきりしない。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、祐忠は西軍から東軍に寝返ったものの、事前の 連絡がなかったとして改易となった。その領地は、宇和島城主藤堂高虎に与えられた。 祐忠の東軍寝返りを斡旋したのは、この高虎である。高虎は同七年(1602)に今治城の 築城を開始した。普請に際しては国分山城の石材が転用されたとされ、同九年(1604) に今治城が完成すると、国分山城は廃城となった。 <手記> 国分山城のあった唐子山は唐子浜に臨む独立丘陵地帯の最高峰で、比高は100m ほどしかないものの、円錐状でよく目立ちます。おそらくかつては、穏やかな波打ち際の 唐子浜や志島ヶ原などは船をつけやすかったのでしょう。 城跡へは、南西麓から階段の続く登城路が整備されています。途中削平地らしき平場 がいくつか見られますが、当時のものなのかは判断に困ります。山頂まではさほど時間 もかからず到着します。山頂の主郭跡には説明板と四阿があります。主郭の周囲の藪 に身を潜らせると、堀跡や虎口跡、土塁の痕跡様の地形がいくつか認められます。 ひと昔前の資料には石垣の一部が残るとあるのですが、これがどう探してもみつかり ません。一旦諦めて下山し、登山口北の居館跡とされるなだらかな傾斜部を踏査しま した。すると、畑の所有者と思しき女性がいたのでうかがってみたところ、やはり山頂に あるはずとのこと。そこでもう1度息を切らしながら登って主郭のまわりを1周したのです が、どうしても見つかりません。資料にある写真ではかなり明瞭に残っているはすなので、 おそらく近年失われてしまったのでしょう。 近年失われたといえば、登城路前の唐子台団地と麓の県道を結ぶきれいな道路も、 どうやら近年造られたもののようです。山麓居館前に堀跡があったというのも、おそらく この道路建設によって逸失してしまったものと思われます。 |
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山麓居館跡から唐子山を望む。 | |
主郭跡。 | |
山頂からの眺望。 | |
主郭のようす。 | |
主郭下の横堀跡か。 | |
同じく堀跡か。 | |
同じく土塁跡か。 | |
同じく虎口跡か。 | |
山麓居館跡のようす。 | |
山麓居館の堀跡か。 |