由良古城(ゆらこ) | |
別称 : 由良城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 安宅氏か | |
遺構 : 曲輪、虎口跡、切岸 | |
交通 : 洲本バスセンターからバスに乗り、 「由良」下車徒歩5分 |
|
<沿革> 紀伊国牟婁郡安宅荘を本貫とする安宅氏が淡路国へ進出した際、最初に拠点とした城と考え られているが、詳しい経緯は明らかでない。江戸時代中期に成立した『淡路常磐草』によれば、 文正年間(1466〜67)ごろには安宅甚五郎が由良城に拠っていたと伝わるとされる。安宅氏は 淡路島内8か所に分家して「安宅八家衆」と呼ばれたが、由良家はその惣領的な地位にあった とみられている。 大永六年(1526)、由良城主安宅治興が洲本城を築いて移り、後に三好長慶の弟冬康を養子 としたとされる(異説あり)。由良城は、その後も冬康の有力支城として存続したとみられる。 永禄七年(1564)、冬康は長慶によって自害させられ、跡を嫡男の神太郎(信康)が継いだ。 しかし、神太郎は元亀年間(1570〜73)の末ごろに消息不明となり、代わって神太郎の弟ないし 冬康の兄三好実休の子とされる神五郎が安宅氏の当主となったと推測されている。神五郎の諱 は清康、官途は河内守とも伝えられるが、一次史料からは確認されていない。神五郎は由良城 を居城としたともいわれる。 天正九年(1581)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉・池田元助が淡路に進軍すると、由良城は 降伏・開城したとされる。羽柴家臣仙石秀久が洲本城に入ったが、由良城の扱いは定かでない。 秀久が戸次川の戦いでの醜態により天正十四年(1586)に改易されると、脇坂安治が洲本城主 となった。 関ヶ原の戦い後の慶長十四年(1609)、安治は伊予大洲藩5万3千余石へと加増・転封となり、 翌十五年(1610)には姫路藩主池田輝政の三男忠雄が6万石で淡路国主に封じられた。忠雄の 母は徳川家康の娘の督姫であり、忠雄は当時まだ9歳であった。 忠雄自身は幼少だったため姫路城に留まり、淡路には家臣が派遣され、はじめ岩屋城を居城と 定めた。しかし、慶長十八年(1613)には由良城眼前の成山に新らしく居城が築かれた。遅くとも このときまでに、安宅氏以来の由良城は廃されたものと考えられる。 <手記> 由良には2つの由良城があり、区別のために池田氏の築いた成山の近世城郭を由良成山城、 安宅氏の水軍城を由良古城と呼びならわしています。由良古城は由良の港町の北西ある小丘を 利用した城で、山頂には成山神社が鎮座しています。上の地図にあるとおり、南東の尾根先から 登ることができ、途中にある墓地が目印です。 南北に細長い神社境内が主郭で、その北に3段、南に1段はっきりした腰曲輪が認められます。 私が訪れたとき、ちょうど境内の清掃をしている地元の方がいて、お話を伺うことができました。 成山神社は地域の船の守り神ということで、数十年前までは境内の木も低く整えられ、港を出る 船から社殿を仰ぎ見ることができたのだそうです。 本殿の祠背後に段差があり、主郭も2段になっているように見えますが、その方によると後世の 改変だそうです。また、主郭南東隅付近に現在の境内入口とは別の開口部があり、以前の参道 だそうですが、当時の虎口跡と思われます。主郭の両サイドには帯曲輪状の段々地形も見られ ますが、こちらはかつて果樹などが植えられていたそうで、遺構かどうかは不明です。 南側の腰曲輪の下には、何らかの施設のような大きな建物があります、こちらは土地が大きく 造成されているため、城域が延びていたかどうかは分かりません。 全体として、安宅氏の惣領家の城としては、あまり規模が大きいとはいえません。ただ、水軍の 拠点としては、この程度で十分だったともいえるでしょう。 |
|
成ヶ島から対岸に由良古城を望む。 間の水路は江戸時代に開削されたものです。 |
|
主郭のようす。 | |
成山神社本殿祠背後の段差。 後世の造作だそうです。 |
|
主郭北半のようす。 | |
主郭南東隅の旧参道口。 虎口跡か。 |
|
主郭北側1段目の腰曲輪を見下ろす。 | |
同2段目の腰曲輪。 | |
同3段目の腰曲輪。 | |
主郭サイドの腰曲輪上地形。 かつて果樹等が植えられていたそうです。 |
|
主郭南側の腰曲輪。 | |
南側腰曲輪の南側。 造成されており城域かは不明です。 |