由良成山城(ゆらなるやま)
付 高崎台場(たかさき)
 別称  : 由良城、成山城
 分類  : 山城
 築城者: 池田忠雄
 遺構  : 曲輪跡か
 交通  : 由良支所北桟橋から成ヶ島渡船に乗車船


       <沿革>
           慶長十五年(1610)、姫路藩主池田輝政の三男忠雄が6万石で淡路に封じられた。忠雄の母は
          徳川家康の娘の督姫であるが、忠雄自身は当時まだ9歳であったため、領国には池田家の家臣
          が派遣された。はじめ、岩屋城を改修して居城としたが、同十八年(1613)には由良の成山に新城
          が築かれた。
           元和元年(1615)、岡山藩主池田忠継が早世すると、実弟の忠雄がその跡を継いだ。淡路国は
          徳島藩蜂須賀家に与えられ、筆頭家老稲田示植が由良城に入った。由良は要衝ではあるものの
          土地が狭小だったため、示植および蜂須賀家は洲本城への移転を幕府に願い出た。寛永七年
          (1630)に許可が下り、翌年から同十二年(1635)にかけて、俗に「由良引け」と呼ばれる城下町も
          含めた大規模な移転が行われた。成山の由良城は、同十八年(1641)に廃城となったとされる。
           由良の港自体は廻船問屋の港湾としてその後も重要視され、明和三年(1766)には成山西麓に
          新たな運河として新川口が開削された。幕末に入って黒船が来航すると、幕府は安政元年(1856)
          に紀淡海峡防衛のための台場建設を命じた。これを受け、徳島藩は文政元年(1861)にフランス式
          砲台の高崎台場を建造した。この工事には、由良成山城跡の石材が多く転用されたとされる。


       <手記>
           由良には2つの由良城があり、区別のため成山の近世城郭を由良成山城、中世安宅氏の居城を
          由良古城と呼びならわしています。成山は、今では淡路本島から切り離された孤島となっています
          が、上述のとおり当時は地続きで、現在の由良港は潟湖(ラグーン)でした。
           成山のある砂嘴は成ヶ島と呼ばれますが、これは戦後になって名付けられたのだそうです。島へ
          渡るには、対岸から渡船を利用します。結構パワーのあるエンジンを積んでいるようで、ものの1分
          ほどで島に到着します。そこから成山へは複数のルートがありますが、渡り守さんの助言に従って、
          北から登って南へ下りるルートを通りました。ただ、以下の説明と下記の写真は、実際の登山ルート
          とは逆の順序で紹介していきます。
           南から入山して最初のピークは、登山道からは外れていますがよじ登ってみるとすり鉢状になって
          います。曲輪のように見えなくもないのですが、成山は明治以降に要塞として利用されていたため、
          そちらの遺構である可能性の方が高いように感じられます。近代要塞が建造されていただけでなく、
          城の存続期間が短く、石材が高崎台場建設に転用されたことも相まって、どれが城の遺構か判然と
          しないという点は、成山全体についてずっとついて回る問題です。
           山頂の南1段下にも、虎口状の開口部を伴う高土塁で囲まれた空間があるのですが、やはり曲輪
          というよりは要塞の施設跡のように見受けられます。ただ、南ルートで山頂の広場に入る手前には、
          腰曲輪のような削平地もありました。
           山頂は広々とした広場となっていて、当時の本丸の領域をそのまま踏襲しているように見えます。
          南端に土塁状の展望台があり、コンクリート製の砲台の台座が残っています。位置や高さからみて
          櫓台跡と思われますが、海風が直接吹き付ける場所なので、実際に天守的な高層建築が存在した
          かどうかは分かりません。展望台からは砂嘴の先端の高崎台場跡はもちろん、紀淡海峡の友ヶ島
          やその向こうに本土の加太付近まで見渡せます。
           山頂広場の北端にも土塁状の土盛りがあるのですが、やはり遺構かは不明です。広場の北には、
          細尾根を挟んで成山大明神が鎮座しています。境内は細長く、副郭のようにも見えますが、やはり
          判別は困難です。さらにその北にはレンガ造りの円形砲台があり、そこから北に外れて斜面を下る
          と、堀切か土橋のような地形が現れます。近代要塞にとって重要な尾根とは思えず、数少ない貴重
          な遺構ではないかと、個人的に考えています。尾根先へ進むと、削平地様の箇所もみられ、北端の
          見張り場か何かであった可能性も考えられるでしょう。
           砲台を迂回するように主尾根と散策路は西に折れ、途中には数段の切岸がみられます。これらも
          要塞に必要な造作とは思えないので、城の遺構ではないかと推測されます。尾根の西端近くで道は
          麓へ下りる九十九折れとなるのですが、その脇に石片が散らばっている斜面が2か所ほどあります。
          あるいは台場建造に使われなかった石垣の残材とも考えられますが、確証はありません。
           さて、砂嘴の南端の高崎台場ですが、成ヶ島の砂嘴が希少なラグーンとして国立公園に指定され
          ており、特に台場跡までの南半は立ち入りを遠慮してくださいとのことでした。成山から徒歩5分ほど
          のところには六本松台場跡があり、そちらは土塁が残り見学可能です。ただ、他サイトを拝見すると
          歩いて行っている人もいるようなのですが、以前はOKだったのでしょうか?

 渡船(手前)と新川口越しに成山を望む。
 当時はこの水路はありませんでした。
南側の砂嘴から成山を望む。 
 南尾根ピークの擂鉢状地形。
 要塞の遺構か。
南尾根の土塁に囲まれた空間。 
要塞の遺構か。 
 同空間の虎口状開口部。
山頂南側下の土塁状地形。 
 山頂部南西隅脇の腰曲輪状削平地。
 こちらは城の遺構か。
山頂部南西隅脇の土塁状地形。 
 山頂展望台の砲台跡。
山頂展望台からの眺望。 
 友ヶ島とその向こうに本土を望む。
高崎台場跡(左側)を望む。 
 展望台から山頂広場を俯瞰。
 本丸跡か。
山頂広場北端の土塁状地形。 
 成山大明神。副郭跡か。
大明神北の円形砲台跡。 
 砲台跡北尾根の堀切ないし土橋状地形。
北尾根先端部のようす。 
 北尾根の削平地。
北西主尾根の切岸状地形。 
城の遺構か。 
 同上。
北西主尾根中腹の石片群。 
石垣跡か。 
 同上。


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