荒戸城(あらと) | |
別称 : 荒砥城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 上杉景勝 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、櫓台、虎口 | |
交通 : JR越後湯沢駅からバスに乗り、 「芝原」下車徒歩25分 |
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<沿革> 天正六年(1578)、上杉景勝と上杉景虎の間で御館の乱が勃発すると、景勝は景虎の実家で ある北条氏の介入を阻止するため、同年六月に荒戸城の築城を深沢利重・登坂安忠(与衛門尉) らに命じた。同年九月には、景虎の実兄である北条氏照・氏邦が軍を率いて越後に入り、荒戸城 と樺沢城を攻め落とした。 次いで北条勢は、景勝の実家・上田長尾家の居城である坂戸城の攻略にかかったが、攻め 落とすことができなかった。時間を浪費するうちに冬が近づき、氏邦や北条高広(後北条氏では なく越後の大江流北条氏)を樺沢城に置いて撤兵した。 この間に武田氏と和睦するなど形勢を盛り返した景勝は、翌七年(1579)二月に援軍の望めぬ 樺沢城と荒戸城を奪回し、その翌月には景虎を鮫ヶ尾城にて自害に追い込んだ。乱後も荒戸城 は対北条の最前線として修築され、利重や樋口主水助兼一(直江兼続の叔父)が守備したもの とみられるが(安忠は同乱で戦死)、確証はない。翌天正八年(1580)閏三月にも北条勢が越後 へ侵攻し、荒戸城を攻め落としたものの、やはり坂戸城を抜くことができずに撤退したとされる。 天正九年(1581)、景勝は樋口兼重(兼続の父兼豊の従弟)・栗林政頼らを新たな荒戸城将に 任じた。以後、荒戸城は平時においては関所として機能し、政頼らは関銭の徴収に当たっていた とされる。慶長三年(1598)に上杉家が会津へ転封となると、荒戸城も廃城となった。 <手記> 荒戸城は、三国峠を越えた三国街道が苗場の谷筋から魚沼盆地へと入る芝原峠の真上にあり ます。峠の反対側は細尾根1本で繋がっている笄型の峰で、城砦を築くにはお誂え向きの地勢と 地形といえるでしょう。むしろ、御館の乱以前には本当に何もなかったのかと訝りたくなるくらいの 好点で、樺沢城生まれとされる景勝は、謙信の存命中からここに目をつけていたのではないかと 思われます。 現在の国道17号は芝原峠をトンネルで通過していますが、その脇の旧道を上がると、ちょうど峠 のところに駐車場と登山口、そして説明板があります。城は笄型を形成する北東と北西2又の尾根 にそれぞれ曲輪や堀を展開する構造で、登山道は5分も登れば北東尾根の城域に入ります。敵の 侵攻ルートが三国峠側とはっきりしているため、北東よりも北西尾根に力点が置かれているのは 明らかです。ただそれでも、北東尾根にも堀切や土橋、竪堀、横堀などかなり複雑な防御設備が 見て取れます。魚沼側の東斜面には竪堀が複数設けられているものの曲輪の展開は比較的弱く、 とりあえずこちらから登って来なければそれでよいといった感じなのに対し、北西尾根には厳重な 袋状の虎口や長大な横堀などが設けられ、ここで敵を迎え討つという意思が伝わってきます。 総評するなら方々で言われているとおり、荒戸城は小規模ながら技巧性に富んだ、少数の兵で 時間を稼ぐための城砦と考えられるでしょう。御館の乱での急ごしらえでここまでの工事は困難と 思われることから、おそらく現在の姿は景勝方が北条氏から奪還した後に改修を重ねた最終形態 と推察されます。結果的には攻められるたびに落ちてはいますが、とくに景勝方としては坂戸城の 迎撃態勢が整うまでの時間を稼ぐのが一番の役割であり、その意味では立派に役目を果たして きたといえるでしょう。 遺構の残存状況もきわめて良好で、車さえあれば訪れやすく、城内もたいへん見やすく整備され ていると、三拍子そろったありがたい中世城郭跡でした。 |
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登山口。 | |
北東尾根の防御施設群。 | |
北東尾根の堀切と土橋。 | |
同じく竪堀。 | |
北東尾根の曲輪。 現地では二ノ丸とあります。 |
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二ノ丸から本丸を望む。 | |
2又の尾根を分かつ空堀。 | |
東斜面の竪堀。 | |
背後尾根の堀切。 | |
北東尾根側の本丸虎口。 | |
本丸のようす。 | |
本丸奥の櫓台を望む。 | |
北西尾根側の本丸虎口。 | |
北西尾根の曲輪の竪堀。 現地では三ノ丸とあります。 |
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三の丸の袋状の虎口跡。 | |
三ノ丸のようす。 二ノ丸より面積があります。 |
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三ノ丸の横堀と土橋。 | |
三ノ丸の横堀と土塁。 | |
同上。 | |
三ノ丸東端から本丸虎口と二ノ丸方面を望む。 | |
竪堀から二ノ丸の横堀へと続く 虎口状地形。 |
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二ノ丸の横堀。 | |
芝原峠へ向かう道からの眺望。 |