有吉城(ありよし)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 北条綱成
 遺構  : なし
 交通  : 京成千原線学園前駅または
      おゆみ野徒歩10分


       <沿革>
           天文七年(1538)の第一次国府台合戦で小弓公方足利義明が討ち死にすると、小弓城
          旧城主である原胤清は北条氏綱の支援を受けて城を回復した。一方、義明を見限って兵力
          を温存した里見義堯が上総へ勢力を拡大したため、氏綱はこれに備えて北条氏綱に有吉城
          を築かせたとされる。
           天文二十一年(1552)、義堯が有吉城に攻め寄せたが、綱成がよく守り、里見勢を退けた
          とされる。ただし、当時の北条氏は里見氏に対してむしろ攻勢に出ており、綱成は川越城主
          を務めていたことから、このような戦いが実際にあったのかは疑問が残る。
           永禄四年(1561)、生実城が里見氏重臣の正木氏に攻め落とされたとされ、有吉城も落城
          したと推測される。早ければこのとき、遅くとも同七年(1564)の第二次国府台合戦で里見氏
          が北条氏に大敗したときまでに、有吉城は廃されたものと考えられている。


       <手記>
           有吉公園上の泉蔵寺付近が、有吉城跡といわれています。ただし、発掘調査でも城館の
          遺構は見つかっていないようで、現地に説明や案内などもありません。
           そもそもこのあたりは、古地図を見ると細長い峰の中途の集落地だったようで、およそ城が
          築かれるような地勢には思えません。防御上も交通上も利点は見いだせず、まして純粋に
          戦闘用の城砦とするならなお不自然です。
           比定地の西の城ノ台には、部分的ながら城の遺構が認められます。こちらは半独立丘で
          西麓には大百池があり、その西側には小弓城が控えています。要害性や小弓城との連携と
          いった点を鑑みると、むしろ有吉城とは城ノ台にあったのではないかというのが、私見として
          湧いてきました。
           ただし、城ノ台も遺構が中途半端なため、いずれにせよ長期的な使用を企図した城砦では
          なかったものと思われます。時期は不明ながらピンポイントで小弓城の原氏とともに里見勢
          を迎撃するため、北条氏が陣城として取り立てたというのが実情ではないでしょうか。

           
 比定地とされる泉蔵寺。
泉蔵寺境内から西方を望む。 
右手奥が城ノ台。 


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