桜井城(さくらい)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 小浦喜平治か
 遺構  : 土塁
 交通  : 名鉄西尾線桜井駅徒歩5分


       <沿革>
           土豪小浦喜平治が城砦を構えたのが始まりとされる。文明八年(1476)に岩津城主松平信光が
          安祥城を奪って間もなく、桜井城も松平氏の手に帰したとみられている。信光の三男親忠が安祥
          松平家を興すと、親忠の四男親房が桜井城主となった。
           親忠の跡を継いだ長親の三男信定は、叔父松平親房の婿養子となり、桜井松平家を興した。
          長親の嫡男信忠は家中をまとめる才に乏しかったとされ、家臣の一部には信定を推す声も少なく
          なかったとされる。結局、信忠は隠居に追い込まれ、安祥松平家の家督は信忠の子清康が継承
          した。
           清康は、岡崎城を奪って松平宗家の座を確立させるなど勢力を著しく拡大したが、信定は宗家
          の家督に対する野心をしばしば表にした。清康は、天文四年(1535)のいわゆる「守山崩れ」で
          横死したが、この戦いは信定が尾張の織田信秀と密かに結び、信秀の弟の守山城主織田信光
          に自身の娘を嫁がせたことが関係しているともいわれる。信定は、清康の死に乗じて岡崎城を
          占拠し、宗家簒奪を図った。しかし、松平家重臣や今川氏の支持を得られず、清康の子広忠に
          臣従し桜井へ戻った。
           信定以降、清定・家次・忠正と4代にわたり宗家にたびたび反抗したが、三河一向一揆が鎮圧
          されると、広忠の子の松平(徳川)家康に帰順した。天正十八年(1590)、忠正の子家広は家康
          の関東移封に従い、武州松山城1万石を領した。桜井城はこのときに廃城となったものと推測
          される。


       <手記>
           桜井城跡は城山公園となっていて、公園の南西隅には土塁の一部が残り、その上に城址碑
          が立っています。桜井の地名にちなんだのか桜の植えられたのどかな公園で、周囲に対して
          小高い丘となっています。
           古地図を見ると、城山はイボのようにぽこんと飛び出た小さな舌状台地で、低湿地に囲まれ
          要害性は高いと思いますが、狭小で長期間の籠城には向いていないように見えます。平時の
          居館は、おそらく付け根の広い台地上にあったのでしょう。
           公園から小道を挟んだ南側には桜井靖霊神社があり、その社殿の裏にも土塁状の高まりが
          認められます。また小道沿いには、桜井信定の墓所もひっそりと佇んでいます。
           ちなみに桜井松平家は、江戸時代には尼崎藩4万5千石の大名となりました。宗家と因縁の
          関係にあったにしては、比較的優遇されているように感じます。これは忠正の妻が家康と同腹
          の多劫姫だったことが大きいと思われますが、あるいは4代にもわたって宗家の座を窺うほど
          ですから、代々の当主そのものは有能と認められていたのかもしれません。

           
 桜井城址碑。
石碑の立つ土塁跡。 
 公園内のようす。
桜井靖霊神社。 
 神社裏手の土塁状地形。
松平信定の墓。 


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