愛宕山陣所(あたごやま) | |
別称 : 遠藤慶隆陣所 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 遠藤慶隆 | |
遺構 : 削平地か | |
交通 : 長良川鉄道郡上八幡駅からバスに乗り、 「愛宕公園前」下車徒歩1分 |
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<沿革> 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、郡上八幡城を攻めるために東軍の遠藤慶隆が陣を 布いたとされる。当時の八幡城主稲葉貞通は、西軍として犬山城に入っていたが、当時すでに 東軍へ寝返っていた。しかし、慶隆と女婿の金森可重は報せを受けてなお、貞通の翻意が真偽 不明として攻撃を続行し、慶隆は愛宕山に、可重は五町山に布陣した。 八幡城には貞通の末子通孝が詰めていたが、九月一日の攻城戦では寄せ手に大きな被害が 出て痛み分けとなった。翌二日、慶隆と可重は和議をもちかけ、城方も受諾した。しかし、翌三日 未明に貞通とその嫡男典通が密かに八幡城へ急遽帰還すると、その足で愛宕山の陣所を急襲 した。 和議の直後で油断していた遠藤勢は混乱したが、遠藤長助・鷲見忠左衛門・粥川五郎左衛門・ 粥川小十郎・餌取作助の5名が踏みとどまって奮戦し、その犠牲と引き換えに慶隆らは可重陣へ 逃げ延びた。 同じ東軍としての面目を保った貞通は、翌四日に改めて和議を持ちかけて成立させた。戦後、 慶隆は2万7千石で旧領の郡上八幡城主となり、貞通は5万石に加増され臼杵藩主となった。 <手記> 愛宕神社の鎮座する丘が愛宕山です。南東麓には、命に代えて主君を守った5将を讃え、寛文 十二年(1671)に3代郡上藩主遠藤常友が建立した五人塚があります。数日留まっただけの陣所 なので、遺構などはもとよりないでしょう。 東殿山城(赤谷山城)に登って最初のピークに、祠と東殿山城の説明板がありますが、一説に ここも陣所の一部といわれています。ただ、背後の鞍部に堀などはみられず、頂部もはっきりとは 削平されておらず、確かめる術はありません。よしんば曲輪形成されていたとしても、陣所という よりは東殿山城の出丸と考えたほうがよいでしょう。 |
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愛宕神社。 | |
五人塚。 | |
東殿山城へ登って最初のピーク。 ここも陣所跡とする説もあります。 |
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ピークの南側。 曲輪形成されているといえなくもなくも…。 |
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ピーク背後の鞍部。 堀などはみられません。 |
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ピークへ登る途中から郡上八幡城を望む。 |