山田館(やまだ) | |
別称 : 山田氏館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 山田氏 | |
遺構 : 不詳 | |
交通 : 東武東上線/JR八高線小川町駅 からバスに乗り、「安戸」 下車徒歩2分 |
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<沿革> 松山城主上田氏の家老を務めた山田伊賀守直定の居館とされる。直定は伊賀守直義 の子とされるが、山田氏の出自については詳らかでない。『青木家譜』には、治承四年 (1180)に山田伊勢守清義が宇治川の先陣に敗れ、蟄居するために腰越城を築いたと ある。実在したのであれば、清義は直定の祖先とも考えられるが、『寛政重修諸家譜』 所収の同書は信憑性が高いとはいえず、留保が必要である。ちなみに、治承四年の 宇治川の戦いは以仁王の乱に伴うものであるが、先陣争いで知られるのは寿永三年 (1184)の合戦であり、争ったのは佐々木高綱と梶原景季である。 直定は腰越城主と務めたとされ、永禄五年(1562)に太田資正勢との合戦(赤浜原の 戦い)で討ち死にした。家督は、直定の弟ないし子と伝わる青鳥城主の伊賀守直安が 継いだとされる。青鳥城は当館から離れているため、早ければ直定の死により使われ なくなったものと思われるが、詳細は定かでない。 <手記> 山田館は実在したとは思われるものの、正確な所在地についてははっきりとしていま せん。上品寺北東の裾野のどこかという点では一致しているものの、遺構らしきものも 見当たりません。 寺の東側の道を入り、小さな団地の脇を進むと、右手に3段の畑があります。最上段 の畑は休耕していますが、最も面積が広く、個人的にはここが館跡ではないかと感じ ました。おそらくかつては道を挟んだ団地駐車場までが畑地で、屋敷と2段の腰曲輪が あったとみることは、十分可能でしょう。 さらに登って山林に入ると、村指定文化財の「山田氏五輪塔群」があります。累代の 墓地となれば、生活空間である屋敷の裏手に設けるのが普通でしょうから、この点も 私の仮説の補強となるものと考えられます。 五輪塔からさらに丘を登ってみましたが、とくに城砦化されているようすはありません でした。斜面東側に1か所、明らかに人工の土塁状地形があったのですが、その上は 曲輪形成されているというわけではなく、おそらく後世の造作と思われます。 山田館の前は安戸宿となっていて、東西には腰越城と安戸城があります。こうした 位置関係から、腰越城を預かる山田直定がこの地に居館を設けたことには、十分な 蓋然性が感じられます。 |
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山田館跡周辺現況。 | |
3段の畑地最上段の土塁状地形。 | |
最上段の畑地を俯瞰。 | |
山田氏五輪塔群。 | |
山林中にある土塁状地形。 後世の造作か。 |
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館跡前の旧安戸宿のようす。 |