今治城(いまばり) | |
別称 : 吹上城、吹揚城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 藤堂高虎 | |
遺構 : 石垣、水濠 | |
交通 : JR予讃線今治駅徒歩15分 | |
<沿革> 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでの功績により、宇和島城主藤堂高虎は越智郡に 12万石を加増された。前領主小川祐忠の居城は国分山城にあったが、高虎は同七年 (1602)に今治城の新規築城に着手した。今治という地名については、「今よりこの地を 治める」という意味を込めて高虎が名付けたとする説がある。しかし『太平記』に「今張」 が登場するなど、古くからの地名であることがうかがえる。字の表記については、ほか に「今針」「今墾」などとするものがある。ちなみに祐忠は、関ヶ原の戦いで高虎を通じて 西軍から東軍に寝返ったものの、事前の内約がなかったとして改易されている。 城は、慶長九年(1604)に完成した。今治城に天守が存在したかについては両論ある。 『寛政重修諸家譜』には同十五年(1610)に今治城天守が丹波亀山城に移築されたと する記述がみられ、しばしば天守実在説の根拠とされるが、一次資料及び現地遺構に よる裏付けは得られていない。 慶長十三年(1608)に高虎は津へ移封となったが、今治2万石は飛び地として残され、 高虎の養子高吉(実父は丹羽長秀)が今治城代となった。寛永七年(1630)に高虎が 没すると、津藩は高虎の実子高次が継ぎ、高吉はその家臣扱いとなった。 寛永十二年(1635)、高吉は伊勢国内に領地替えとなり、代わって久松松平定房が 伊勢長島7千石から3万石に加増のうえ今治藩主となった。今治城を首府とする今治藩 が公式に成立したのは、このときである。 以後、松平家が10代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 幅の広い水濠に内郭部全周を巡る犬走り、そして方形を基本とする縄張りと、今治城 は高虎流築城術の雛形といえるでしょう。現在残っているのは内堀の内側のみですが、 それでも高石垣が水濠に映えて絵になります。 今治城というと、白壁のすらりとした天守閣が印象的ですが、当時天守が存在したか については、前述の通り賛否両論あります。ただ、もし存在したとしても、丹波亀山城に 移築されるまでの6年ほどしかなかったこと、またその位置は現在模擬天守閣が建って いるところではないだろうことは、ほぼ間違いないでしょう。また、亀山城天守は層塔式 であったことが古写真から明らかとなっていますが、それをモチーフに設計された今治の 模擬天守は望楼式になっています。これは層塔式だと破風が付かないので外観に城郭 らしさが出ないからということのようです。同様の例に小倉城がありますが、両者は復興 時期が20年ほども離れているというのに、「城には破風がつきものだ」「外観や構造も 当時に忠実でなくてもよい」という風潮が長らく支配的だったというのは、なんとも時代と いうものを考えさせられます。 その後も、高度経済成長期からバブル期にかけていくつかの櫓が復興されましたが、 近年はさすがにバツが悪くなってきたのか、2007年にようやくできるだけ当時に忠実に 考証して、二の丸鉄御門と付属の櫓群を「再建」しています。今治市も人口や来訪者が 減ったと不要な大学を誘致するくらいなら、こうしてシンボルのお城を昔日の姿に戻して 客を呼んだ方が良いのではないかと思います。 さて、今治城は日本三大水城の1つとされています。海とつながっていた平城は少なく ありませんが、今日ではその多くが市街地の拡大や埋め立てなどにより、もはや水城 ではなくなっています。ですが今治城では、今なお内堀が海とつながっていて、かつて の舟入も今治港の内港という形で目にすることができます。これは今治城の特徴の1つ として取り上げても良いのではないかと思います。 |
|
おなじみのアングル。 | |
平山郁夫が絵に描いたアングル。 | |
南隅櫓付近の水濠と石垣、そして犬走りの美観。 | |
復元鉄御門と多門櫓、武具櫓など。 | |
鉄御門を枡形内部から。 | |
復元塀と武具櫓(奥)。 | |
天守から舟入跡(今治内港)を望む。 | |
天守閣を見上げる。 |