猪俣城(いのまた)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 猪俣氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、土橋
 交通  : 秩父鉄道波久礼駅徒歩90分


       <沿革>
           武蔵七党の1つ猪俣党嫡流猪俣兵庫頭入道によって築かれたと伝わる。兵庫頭は源平合戦で
          活躍した猪俣小平六範綱の6代子孫ということから室町時代ごろの人物と推測されるが、詳細は
          不明である。
           『新編武蔵風土記稿』によると、猪俣氏は北条氏邦に従ったものの酒匂萱野の戦いで大須賀
          五郎左衛門に敗れ、城を退去したとされる。大須賀五郎左衛門については、徳川氏家臣大須賀
          康高ないしその養子で榊原康政の長男忠政と考えられる。酒匂萱野の戦いについては、詳細は
          不明である。
           後北条氏時代の猪俣氏としては、富永氏から養子に入った猪俣邦憲がいる。邦憲は北条氏邦
          麾下として天正十八年(1590)に真田氏の上州名胡桃城を急襲して奪い、小田原の役の契機を
          作った武将として知られる。邦憲の養父や所領については定かでないが、あるいは氏邦の居城
          鉢形城にほど近い猪俣城を拠点としていた可能性も考えられる。


       <手記>
           猪俣城は、鐘撞堂山北西に突き出た支峰上に位置しています。すぐ麓までゴルフ場が迫って
          いますが、かつては四方にまんべんなく尾根が伸び、かなり奥まったところにある城です。上の
          地図に示した西側の緑点付近から図にあるとおりに鐘撞堂山方面へ登り、南東尾根から回って
          城内に至るルートがおすすめです。
           山頂には2つの主たる曲輪が並んでいます。その間は土橋で結ばれていますが、堀について
          は西側にのみ認められます。南北に並ぶ2つの曲輪は、それぞれ南西と北西に虎口があります。
          主郭とみられる北側の曲輪の北西尾根筋に腰曲輪と堀が続き、最先端では二重堀切となって
          います。
           南側の曲輪の南西尾根にも巨大な堀切が穿たれていますが、鐘撞堂山へ通じる南東尾根筋
          には、なぜか堀がみられません。腰曲輪が1つあるのですが、先述の南西尾根堀切とほとんど
          繋がっています。
           全体的にみると、西と北からの攻撃が強く意識されている一方、とりわけ南東については殆ど
          防禦上の工夫がみられません。したがって、最終的な改修者はおそらく後北条氏だったものと
          推測されます。ただ、もともとは花園方面と上州を結ぶ連絡経路として山内上杉氏に利用され
          ていたものと考えられます。いまでも、花園御嶽城の麓の少林寺から鐘撞堂山へと至るルート
          はハイキングロードとなっています。

           
 虎ヶ岡城から猪俣城を望む。
主郭のようす。 
 
 主郭の虎口。
主郭からの眺望。 
 主郭と副郭の間の空堀。
同じく土橋。 
 副郭の虎口。
副郭南西の堀切。 
 副郭南東の腰曲輪。
主郭北西尾根筋の腰曲輪。 
 同上。
同じく堀と切岸。 
 先端の二重堀切その1。
その2。 


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