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上野城(うえの) |
別称 : 伊勢上野城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 分部光嘉 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口、土橋 | |
交通 : 伊勢鉄道伊勢上野駅または 近鉄名古屋線豊津上野駅徒歩15分 |
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<沿革> 永禄十一年(1568)に中勢の有力国人・長野具藤が実家の北畠氏へ追放され、織田信長の 弟・信包が長野氏を継承すると、信包は長野氏の分流である分部光嘉に上野城を築かせ仮の 居城とした。上野城自体はそれ以前からあったともいわれるが、定かでない。また、信包入城 の時期についても、元亀二年(1571)まで諸説ある。 一方で、信包は安濃津城(津城)の整備も並行して進めており、五重の天守を含めた完成は 天正八年(1580)とされるが、それ以前に上野城から移っていたともいわれる。信包が移って 以降は、光嘉が上野城主となった。文禄三年(1594)、信包が豊臣秀吉の不興を買って改易 されると、光嘉は秀吉の直臣に取り立てられ、慶長三年(1598)までに1万石へと加増され独立 した大名となった。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、光嘉は東軍に属して安濃津城に入り、富田信高と 共に寡兵ながら大軍相手に奮戦した。しかし、兵力の差を覆すことはできず、木食応其の仲介 で開城し、信高と光嘉は高野山へと登った(安濃津城の戦い)。上野城は西軍に接収されたと みられるが、詳しい扱いは不明である。 戦後、光嘉は戦功を認められ2万石に加増された。翌慶長六年(1601)に光嘉が病没すると (安濃津城での戦傷が原因とも)、外孫にあたる光信が跡を継いだ。元和五年(1619)、光信は 近江国大溝藩へ転封となり、伊勢上野城はここに廃城となった。 <手記> 田中川の河口に近い丘陵地帯の端部に築かれた城です。名称は単に上野城ですが、今は 同じ三重県の伊賀国にもより有名な上野城があるので、区別のため伊勢上野城と呼ばれる のが一般的です。海岸線までは約1kmで、城下には伊勢街道上野宿が延びています。はっきり 言ってさほど発展性のある土地とは思えないのですが、伊勢街道を海と挟み込む要所となって いるのが、選地上のポイントだったのでしょう。 城跡の中心部は本城山青少年公園として整備され、天守台とみられる土塁上には展望台が 建てられています。その中階に資料館があるのですが、開館時間が4〜11月の第1・3日曜日の 10:00〜13:00とかなりハードルが高く、見学はかないませんでした^^; 眺めは素晴らしく、樹木 がだいぶ延びているものの、伊勢湾や知多半島まで見渡せます。また本丸は天守台の他にも、 周囲を土塁が巡っています。 本丸の前方には2段の曲輪が続き、裏手の駐車場も曲輪跡とされています。前方下段の曲輪 には、浅井家滅亡後の茶々・初・江3姉妹が信包に引き取られて上野城で過ごしたとする伝承 にちなむキャラクターが置かれていますが、近年では3姉妹が仮寓したのは尾張守山城とされて いるようです。 さらに主城域から谷戸を挟んだ東側にも、曲輪群が展開しています。ただ、こちらは猛竹藪と なっていて、現地説明板の縄張り図によれば大きく3つの曲輪があるようですが、断片的に遺構 を確認するのが精一杯でした。頑張って先端の曲輪まで入るとそこはいくらか開けていて、西辺 の堀切や土橋、北と西の虎口などが確認できました。ここだけでも十分に城砦としては成立して おり、主城域の選地にはやや違和感があることから、当初の上野城はこの東曲輪群だけを城域 としていて、後に西側に拡張されたと見るのが自然なように思います。 訪城時はだいぶ日も傾いていて、こんな暗い竹藪で夜を迎えたらどうしようと、脱出までだいぶ 焦ったのを記憶しています笑 |
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本丸のようす。 | |
本丸と奥に天守台土塁および展望台。 | |
展望台から名古屋方面の眺望。 | |
展望台から本丸を俯瞰。 | |
本丸前方下の曲輪跡。二の丸か。 | |
その南西脇の堀状地形。 | |
二の丸下の曲輪跡。三の丸か。 | |
三の丸先端部。 | |
その南西脇の腰曲輪状地形。 | |
同じく、墓地となっている北東側の腰曲輪状地形。 | |
主城域東側の谷戸の和風庭園。 | |
谷戸東側の曲輪群の土塁。 | |
同じく空堀。 | |
同じく土塁。 | |
土塁外側の切岸と谷戸を利用した堀。 | |
谷戸堀を仕切る水戸違い状の土橋。 | |
東曲輪群主郭西辺の土橋と虎口。 | |
同じく西辺空堀。 | |
西辺虎口を郭内から。 | |
郭内のようすと北辺の虎口。 | |
北辺の虎口を郭内から。 |