岩殿城(いわどの)
 別称  : 岩殿山城
 分類  : 山城
 築城者: 小山田信有か
 遺構  : 曲輪跡、城戸跡、井戸、堀、櫓台など
 交通  : JR中央本線大月駅徒歩40分


       <沿革>
           戦国時代の郡内領主小山田氏によって築かれたと考えられているが、築城年代については
          明らかでない。一説には、小山田信有(越中守)が享禄五年(1532)に居館を中津森館から
          谷村館へ移したころに築かれたとされるが、確証はない。
           岩殿城はよく小山田氏の居城とされることがあるが、同氏の居館は上記の通り谷村市内の
          2館にあり続けたため、居城とするのは無理がある。ほかにも詰の城や烽火用の城、北条領
          との境目の城など諸説あり、目的についてもいまひとつはっきりしない。天文二十三年(1553)
          に甲相駿三国同盟が結ばれるまで、郡内はたびたび北条氏の侵攻を受けているが、岩殿城
          が戦場となったことがあるのかは定かでない。
           天正十年(1582)に織田信長が本格的な武田攻めを開始すると、武田勝頼は居城新府城
          を自焼して撤退を図った。このとき、真田昌幸は上野の岩櫃城へ、小山田信茂は岩殿城へ
          退いて再起を図るよう勝頼にそれぞれ促した。勝頼は岩殿行きを選んだが、信茂は寝返り、
          笹子峠を封鎖した。この報に触れた勝頼は、進退窮まって天目山で自害した。戦後、信長は
          信茂を不忠者として一族もろとも処刑した。
           こうして小山田氏は滅び、岩殿城も廃城となったと思われる。岩櫃城・久能城と並んで武田
          三名城に数えられる岩殿城だが、史料上は岩殿城が戦場となったことは一度もない。


       <手記>
           岩殿城は、大月市街から桂川を挟んで北側に屹立する岩山の上に築かれた城です。山の
          南から東にかけては鏡岩と呼ばれる巨岩がほとんど垂直に露出しており、岩殿の名そのまま
          の嶮容をたたえています。中央高速道路を走っていれば、大月IC付近でもっとも目立つ山が
          それです。
           山は西側のみ峰続きで、この西側の尾根筋に大手が開かれていました。これは甲州街道
          方面だけでなく、城の北麓の畑倉も重要な生産集落として支配するためであったと推測され
          ます。現在は、市街から高月橋を渡った先から登ることができます。高月橋の北詰に駐車場
          があるのですが、南から渡ると見つけにくいところにあるので注意が必要です。登山口には
          ふれあい館という櫓を模した資料館があります。
           ふれあい館の裏手から鏡岩を仰ぎ見つつ九十九折の急坂を登ると、2つの岩に挟まれた
          揚城戸跡にたどり着きます。ここには格子状の門が設けられたといわれ、戦時には格子の
          隙間から槍衾を作って侵攻を防いだと考えられています。現地の説明には「第二の関門」と
          書いてありましたが、私の直観としては、むしろ「最後の関門」であったと思われます。この
          揚城戸を抜けると、山上の主城域へと至るのですが、主城域の防御能力はほとんど限られ
          ていたものと見受けられます。
           主城域は、大きく分けて北東の主郭部と、南西の曲輪群の2つに分けられます。いずれも
          数段に分けれた削平地を基本とし、いたるところに櫓台が設けられています。しかし、堀や
          土塁はあまり見受けられず、全体的に原地形をさほど改変しているようすは見られません。
          つまり、揚城戸を越えて主城域に乗り込まれると、その先には敵兵を遮る施設がほとんど
          ないといえます。
           主郭には、さらに3つの櫓台があったとされています。現在は電波アンテナが建てられて
          いて、少々地形が変わっているように見えますが、櫓台ははっきり残っています。しかし、
          この櫓台は、上に何かを建てるというよりは狼煙台と見た方が妥当と思われます。そもそも
          周囲に遮るものない崖上の城に、加えて櫓を立てる必要は感じられません。
           このように、主城域そのものは防御に適した作りとはなっていませんが、これはひとえに
          揚城戸に至る岩壁の防御にすべてを託した城であったからでしょう。揚城戸が破られるよう
          では、この城も終わりということです。
           ただ、岩殿城が天険に拠っているだけではない名城たる所以は、主城域が広いという点
          にあるといえます。こういった岩山の城というのは、たいてい城内の曲輪の面積は非常に
          限られたものになりがちです。そのため天然の要害とはいえ、駐留できる兵は200〜300が
          限界という城が多いものです。その点、岩殿城は岩のテーブルの上にはわりと面積があり、
          千人単位の兵が駐留できるくらいのスペースが確保されています。加えて、城内には今も
          水を湛える馬洗池もあり、長期の籠城も可能となっています。ここに、岩殿城が他の天険の
          城と一線を画している理由があるような気がします。
           岩殿城については、その役割についての議論があります。今でこそ大月は郡内地方の
          中心地ですが、古くは小田原や駿河からは谷村の方が近く、また谷村の方が栄えていま
          した。地理的にみて、大月が意味をもつのは小山田氏と武田氏の接点としてです。北条氏
          が東から攻めてきた場合、また逆に相模へ侵攻する場合、谷村の小山田氏と甲府の武田
          氏は、大月でばったり落ち合うことができます。岩殿城は、小山田氏と武田氏が連携する
          際の結節点としてこそ意味をもったのではないでしょうか。

           
 岩殿城址を望む。
揚城戸跡。 
看板裏の岩の間に格子戸の門がありました。 
 揚城戸をくぐった先の番所跡。
南の物見台跡。 
 西の物見台跡。
 近年まで画面奥に岩があったそうです。
 崩落の危険により人為的に崩したのだそうです。
馬屋跡。 
南の物見台下の曲輪です。 
 蔵屋敷跡。
 主郭手前の曲輪です。
主郭のようす。 
フェンスの右側が櫓台になります。 
 馬洗池。
 今なお水が湧いています。
岩殿城址からの景色。 
あいにく曇っていますが、中央右手奥に富士山が見えます。 
ちなみに標高634m。東京スカイツリーと同じだそうです。 
 鏡岩の上から直下を望む。


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