久能山城(くのうざん) | |
別称 : 久能城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 武田信玄 | |
遺構 : 曲輪、土塁、井戸跡 | |
交通 : JR静岡駅からバスに乗り、「久能局前」 下車徒歩20分 |
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<沿革> 久能山には7世紀ごろに、秦氏の流れを汲むとされる久能忠仁が建立した久能寺があった。 天文五年(1536)の今川氏輝急死後の家督争いである花倉の乱に際し、玄広恵探派の福島 越前守らは久能山で挙兵し、駿府の栴岳承芳(今川義元)を急襲したが、失敗して恵探らは 花倉城や方ノ上城へ退いた。このときはまだ城郭は築かれておらず、山岳寺院とその僧兵を 頼ったものと推測される。 永禄十一年(1568)に駿河へ侵攻した武田信玄は、久能寺を有度山丘陵北東麓に移転させ (現在の鉄舟寺)、本格的な城郭を築いた。『甲陽軍鑑』によれば、城主は今福友清(浄閑斎) ・虎孝父子であったとされる。 天正十年(1582)の織田信長による武田攻めにおいて、江尻城主穴山梅雪が徳川家康に 寝返ったため、久能山城も抗う術なく開城した。虎孝は子の善十郎と共に自刃したとされる。 その後も徳川氏の城として存続したようだが、その扱いについては詳らかでない。 元和二年(1616)に江戸幕府の大御所となっていた家康が駿府で没すると、遺命によって 遺骸はいったん久能山に安置され、翌三年(1617)に日光へ改葬された。久能山には東照宮 が造営され、遅くともこれを以て久能山城は廃城となった。 <手記> 久能山東照宮へは、南麓から石段を登るか、北の日本平からロープウェイで行くことができ ます。自分は楽をしようとロープウェイに乗ろうとしたのですが、大河ドラマ「どうする家康」が 終わった翌月とてまだ観光人気の余波が残っていたようで、40分待ちと聞いて諦め、機会を 改めることにしました。ただ、ずっと列に並んで待つわけではなく、自分の乗れる発車時刻の 整理券を貰う方式のようなので、複数人で来ていたりお土産屋などを覗いて時間を潰せる人 ならそこまで苦にならないでしょう。 さて、日を改めて南麓から登ると、きちんと九十九折れで登りやすい階段が付いているため もあってか、急峻な山容に比べて以外にもさほど労せず一ノ門まで辿り着けました。一ノ門は 当時の大手門と同じ位置にあるとみられ、抜けると枡形状の曲輪や勘助井戸などがあります。 勘助井戸とは山本勘助晴幸にちなむものと思われますが、勘助が実在したとしても永禄四年 (1561)の川中島の戦いで討ち死にしているので、久能山城に関わることはできません。 東照宮境内は決められたコース以外は立ち入り禁止となっているため、城内で歩ける範囲 はごく限られています。ロープウェイ駅付近およびその奥付近が二の丸跡とされていますが、 山門あたりから西側奥に遠く眺める程度です。 社殿の建つ一帯が本丸とされているものの、ここは山の窪地にあたり、築城のセオリーから は不自然な場所にあります。現状で行ける最高所は家康の神廟ですが、城内最高所である 愛宕郭はさらにその上にあたり愛宕社が祀られているそうです。 こうして見ると、久能山城は基本的には久能寺の伽藍跡をそのまま転用しているように感じ られます。かつては岩殿城や岩櫃城と並んで武田三名城と呼ばれていましたが、近年では あまりその呼称を聞かなくなったような気がします。岩殿と岩櫃については武田氏の直轄では なく、また3城とも名城ぶりを示すような実戦は経験していない点などがあるのでしょう。 それにもまして、個人的には久能山城が陸上交通上さして必要性に乏しい場所にあるのが 気になります。久能山からは海原と久能街道が見下ろせるだけで、駿河を押さえる上でこの 城が必要になる場面はあまりなさそうです。にもかかわらず武田氏がわざわざ寺を移転させて まで城を築いたのは、信玄が欲してやまなかった海と水軍との関連で説明ができるでしょう。 すなわち、清水袋城を拠点として構築した水軍の航路と中継地点の確保、および対岸の伊豆 にある北条水軍の監視という目的のもとで整備されたとすれば、久能山の選地も納得できる ところであると思われます。 |
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南西麓から久能山を見上げる。 | |
日本平から久能山を望む。 | |
南麓から登る石段。 | |
一ノ門。当時の大手門跡とみられています。 | |
一ノ門前からの眺望。 海の向こうに見えるのは伊豆半島。 |
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勘助井戸。 | |
史跡・久能山の説明板。 | |
東照宮山門。 | |
東照宮社殿。 | |
国宝の社殿。 | |
神廟。 | |
山門付近から二の丸跡を望む。 |